臨床コラム プリキュアの心理学

  •   2018/01/09

私は臨床心理士として日々活動しているなかで、ふと「そもそも臨床心理学とはどのようなものだろうか」と考えるときがある。教科書的な回答を別にすれば、この問いに対して明確な答えを持つ人は多くないと思う。私たちは「臨床心理学とは何か?」というそのものの性質について考えることは少ないが、臨床心理学的な視座を用いてその先にある『こころ』について考えるという傾向があるようだ。

これまでのコラムを振り返ると、ブレードランナー2049、空中ブランコ、フランシス・ベーコン、エマオの晩餐、と芸術や文芸に関する内容が多いことが分かる。それは私たちがそうしたものに触れるときには、何かしら『こころが動かされる』体験をするからだろう。この体験をどの様に考えるか、ということこそが臨床心理学そのものだし、「臨床心理学とは何か?」に対する答えになり得ると考える。一連のコラムはそうした臨床心理学的なあり方を例証しているし、今回のコラムもそうなるだろう。

遠山の金さんとカタルシス

時代劇と呼ばれる作品では勧善懲悪の世界観がベースとなっているものが多い。それまで数々の悪事を働きながらも白を切っていた下手人たちに向かって、金さんが「あの晩、見事に咲いた金さんのお目付け桜、夜桜を、まさか己ら。見忘れたとは言わせねえぞ!」と一喝すると、視聴者はやんややんや喝采とともにカタルシスを得る。しかし、ヨハネによる福音書で石を投げる人がいないように、こころの何処にもやましいことがない人などいないのではないだろうか。だが金さんが一喝するとき、私たちはひと時そのことを棚上げする。この時、こころのある部分(善)だけが強調され、他の部分(悪)はどこかにいってしまう。そして善い人となった私たちは、それを金さんに投影し、同一化する。自分の悪いこころは、罪人ともども市中引き回しのうえ打ち首獄門。気分はもうすっかり北町奉行、遠山左衛門尉様である。

 プリキュアにみる、こころの発達

遠山の金さんに見るように、私たちは芸術作品との関係の中で自分のこころを登場人物に重ね合わせる。しかもそれは、ある部分はAに、またある部分はBにといった具合にである。この視点を持って、こころの発達について考えたい。今回取り上げるのは、『映画 魔法つかいプリキュア!奇跡の変身!キュアモフルン!』で、言わずと知れたプリキュアの劇場アニメ映画である。何故、この作品を取り上げるかというと、昨今の幼児アニメは時代劇同様に勧善懲悪の世界観に彩られることが多い中で、この作品では一味違った善悪を体験するからである。

 おおよそのストーリーは以下のようなものだ。

魔法界に伝わる、どんな願いも叶えてくれるという伝説の「願いの石」。その復活を祝うため100年に一度開かれるという「大魔法フェスティバル」にみらいたちはやってきた。願いの石に向かって願い事をしていたところ、その石の力に選ばれたのはモフルンだった。しかし、モフルンは自分としての願いはなく、むしろみらいたちの願いを叶えて欲しいという。その最中突然現れた謎のクマ、ダークマターがフェスティバル会場を襲う。みらいたちはプリキュアとなって応戦するが、ダークマターには刃が立たない。そしてダークマターは自らの願いを叶えさせるために願いの石を強奪した上にモフルンを連れ去ってしまい、みらいとリコはプリキュアに変身出来なくなってしまう。みらいたちはモフルンを救うため探しに出ることになり、モフルンもダークマターの元から逃げ出した先のクマたちが住む森で出会った、クマの男の子・クマタと交流するが、そうした中でみらいもモフルンも今自分が本当に願うことを感じるようになる。そして、みらいと再会したとき、モフルンのある願いが石に通じ、奇跡をおこすことになる。(出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/映画_魔法つかいプリキュア!_奇跡の変身!キュアモフルン!

 産まれたばかりの赤ん坊の心的世界がどの様なものか?は、私たちの興味をひいてやまない。それはとても心地よく満ち足りたものだろうか、あるいは苦痛に満ち溢れた体験だろうか。モフルンははじめ、「願いは何か?」と問われるが、それに答えることが出来ない。これは自分の欲求を感じることが出来ないほどに満足した状態にあるからだろう。そして、みらいの願いを叶えてほしいと言う。ここに見えるのは、他人の満足と自分の満足の線引きが出来ていない、自分と他者の区別がとても曖昧な状態であり、善い人しかいない世界である。

次にモフルンは完全なる悪者であるダークマターにさらわれてしまう。しかしダークマターが、実は優しいクマタでもある、という事実にも直面する。これは勧善懲悪という空想の世界が崩れる瞬間であり、とてもショッキングな現実との遭遇である。良い人だと思って大好きで仲良くしていた人が悪い人で、悪い人だと思って敵視して邪険に扱っていた人が大好きな人でもあったという、それまでの体験が一変するものだ。さらにダークマターはみらいをも圧倒しそうになる。こうした変化を子どもたち=モフルン=私たちは、どの様に乗り越えるのだろうか。最も望ましい状況は、満ち足りた世界から徐々に欲求不満を感じられるようにと移行していくことだろう。そこには多少の痛みは伴うかもしれない、そこで思い出すものはライナスの毛布(移行対象)だろう。不安を鎮めて、私たちを安心させてくれる何かの存在である。これはこのコラムの範疇を超えるので、また別の機会に述べたい。

モフルンが体験したことはこうした緩やかな移行とはならずに、急激な変化であり、外傷的なものだったのだろう。モフルンは深く傷ついた。だが同時に、モフルンはこの時はじめて、「みらいと一緒にいたい」、「みらいを助けたい」と願う。自分はみらいとは異なる別の存在だと認識した瞬間であり、自身のニーズを知ることが出来るようになったのである。そこでモフルンは変身した、それも人形であるはずのモフルンがプリキュアになるという劇的な方法でだ。キュアモフルンは、モフルンが傷つきから生き残るために作り出した、もう一つの側面なのだろう。私たちは多かれ少なかれ、本音と建前で生きている。しかし現実に適応するための建前が大きくなりすぎると、『こころ』はどこかに追いやられてしまう。そうした人たちが心理療法を求める、ということがあるだろう。

作品のなかでは、この後もクマタをめぐる色々な現実を知ってしまって…という展開があるのだが、それは是非本編を見てもらいたい。子どもたちは意識的、あるいは無意識的にモフルンに自身の傷つきと成長を重ね、クマタとダークマターにそしてみらいに向き合う。だからこそ、あんなにも一生懸命にプリキュアを応援するのだろう。

(文:石田拓也)