臨床コラム エマオの晩餐:無意識をめぐって

 

747px-CaravaggioEmmaus[1]

引用)カラヴァッジョ 1606 『エマオの晩餐』 油彩,カンヴァスhttps://en.wikipedia.org/wiki/Supper_at_Emmaus_(Caravaggio),_Milan#/media/File:CaravaggioEmmaus.jpg

カラヴァッジョが晩年に描いた『エマオの晩餐』の前に立つと,湧き上がる何ものかに,動かされる。

絵は,聖書の説話を題材にとっている。イエスが磔にされた3日後のことである。2人の弟子がエルサレムを離れ,エマオに向かう。いつからかイエスが彼らに近づき,ともに歩き始める。しかし2人の目は遮られていて,この人物がイエスであると気づかない。イエスたち一行は,エルサレムで起きたイエスの死に至る経緯や,聖書に書かれてあること,信仰について,歩きながら語り合う。やがて,エマオに到着する。先に進もうとするイエスを,もう夕方だからと2人は無理に引き止める。夕食の時間。イエスはパンを取り,賛美の祈りを唱え,裂いて弟子たちに与える。すると2人の目は開け,眼の前にいる人物がイエスであることをにわかに了解する。しかしイエスの姿は,すでに見えなくなっていた。

カラヴァッジョは,イエスが弟子たちの目に入ったところを描いた。場面の全体を,暗がりが包み込んでいる。ほのかな光が登場人物たちを浮かび上がらせる構成のなかに,内省の深みをみてとれる。傍らに立つ宿屋の主人は,やや困惑した様子でいる。妻は,ほとんど関心がなさそうである。しかし弟子たちの抑制された動きのなかに現れるドラマは,イエスの復活がたしかなものであることを際立たせる。手の表情に現れる驚き。テーブルをつかむ腕に,力がこもる。安堵,疲労,喜びの入り交じる顔つき。イエスはずっと,彼らのそばにいた。ともに歩き,話し,耳を傾けていた。にもかかわらず,気づかずにいた。しかし晩餐で分け与えられたパンを契機に,イエスの実在を思い知る。驚き,喜び,安堵,そして困惑と無関心が渦巻く構成。そのすべてを受け止め,イエスは静かにたたずんでいる。豊かさと,至福と,確信。光と闇の対比が,その抒情性の豊かさと二面性を,雄弁にものがたる。

精神分析は,無意識があるという前提を持っている。人は無意識,つまり自分が意識できない意識に動かされている,と考える。けれども私たちは,人生を意識的に生きている。そんなものが,あるのだろうか? もしそうだとしても,自分に意識できない意識があることを,どうやって知るのだろう?

セラピーの実践について,思い起こしてみよう。部屋のなかには,2人だけがいる。セラピーを受ける側は,思いついたことを話すよう求められる。セラピーを提供する側は,ときどきコメントを発する。思いつくままに,日々のなかで起きたできごとや,読んだことのある本についての考え,あるいは空想や夢について語っていくことになろう。そうしてセッションを重ねていくと,いつからか当事者である2人のあいだに,何ものかが動きだす。

『ヒステリー研究』には,ブロイエルによるアンナ・Oの治療が紹介されている。彼女は教養にあふれるが,ウィーン上流階級のなかでやや単調な生活を過ごしていた。重病にかかった父親の看護をきっかけに,運動麻痺や言語の解体,人格の分裂といったヒステリー症状が現れた。内科医であったブロイエルは,頻繁に往診し,彼女を診た。彼が催眠をかけ,彼女が白昼夢を話すと,症状は改善した。いわゆるtalking cureである。けれども病状は,一進一退する。彼女は,英語しかしゃべれなくなる。英語がわかる家族はなく,ブロイエルによる通訳が頼みとなった。さらに,失認がひどくなる。アンナは,ブロイエルの顔しか認識できなくなった。私たちは,人生を意識的に生きている。それはセラピーのなかでも,変わらない。それぞれの役割は,はっきりしている。一方は思いついたことを話すし,もう一方はそれに聞き入り,コメントをする。それでも,何ものかが動き始める。私たちは,自身の意図がどこからやってくるのか,実は知らない。そのように生きているのは,何なのか。セラピーは,ただ2人が出会うという事態の単純さゆえに,そのことが際立ってくる。

アンナは繰り返すヒステリー症状に苦しんでいたにすぎない。ブロイエルも,そうしたアンナを献身的に治療しただけである。患者と医師は,治療のために会っている。けれどもその進展は,どこか恋に落ちた2人の様相を帯びていく。2人だけの会話,からだに触れること,相手しか見えなくなる状況。そしてアンナにとうとう,妊娠の兆候が現れた。治療のなかにうごめいていたものが,明らかになる瞬間。

弟子たちにとって,イエスが現れたことは,劇的であったろう。彼らにとってイエスは,無意識である。ともに歩き,話し,耳を傾ける。にもかかわらず,目に入らず,気づきもしない。それでも,ともにある。そして晩餐の祈りをささげた瞬間,イエスは彼らの前に現れた。

アンナの無意識は,ブロイエルを通して現れる。もちろんそこには,ブロイエルの無意識がアンナを介して現れた,という側面もあるだろう。セラピーを介した関係が進展していくなかに,無意識は顕わになってくる。彼らの関係は,恋人同士のそれに似たものとなった。どちらも,治療を意図したのであり,恋人になることを意図したわけではない。けれども2人の治療にいつからかそれが近づき,ともに歩み始める。

私たちの無意識は,さまざまなものを含みこんでいる。それぞれの無意識は,おのおのがこれまでにしてきた経験に根ざしているからである。説話のイエスは,その総体を象徴している。ブロイエルとアンナの逸話も,そこに現れた劇的な面を強調したものである。無意識は,気づかずとも,ともにある。私たちは,潜在する豊かさを抱いている。セラピーは,それを明らかにする。弟子たちは,イエスの復活という事態により,そのことを目にする。カラヴァッジョの天才は,そのことを私たちの目に見えるものへと結実させる。彼の絵と向き合うとき,私たちは,エマオの晩餐でのできごと,そして無意識の,生きた証人となるのである。

カラヴァッジョは,「よい画家とは,現実をきちんと写しとることができる者」であると述べたという。

(文:増尾徳行)