臨床コラム:誰かの目に映るということ

 ただ、人が近くにいるというだけでは交流は生まれない。

 電車や道でいくら近くにいても。

 目が合って、誰かの目に私が映ったとしても、それは「私」という像が映っただけで、それ以上の意味合いはない。

 話している時はどうだろう。
 いくら近くにいて話をしていても、話している相手のことと関係の無いことに心を奪われているときは、言葉を交わす運動はしているけど、きっとひとりだ。

 離れている時はどうだろう。
 言葉も交わさない。
 目も合わない。
 だけど、その人のことを思う心がそこにあれば、その人はきっとひとりではない。

 誰かの目(心)に映っている時、そんな時に人は安心を体感するんだと思う。

 セラピーは、人を想う空間であり時間の提供である。
 その想いの種類はその時々で色合いも違うし様々だと思うが、とにかくその人のことを想っている。
 そのことに関しては、とても誠実である。

 私はたいがいでたらめな人間だと思うが、セラピーの時だけは自分を含めて人に対して正直でいたいと思う。

 そのためには、自分自身を映していなければならない。

 ずるくて弱い自分が映るとき、もう嫌だと思い、目を背けたくなる。
 だけど、「にんげんだもの、しょうがないよなぁ」と言ってやれるときもある。
 目をそらさずに、ずるくて弱い自分が私の目に映っている時、じんわりと温かい感覚になる。

(文責:高橋久美子)