臨床コラム 本能は生きられて人間的体験を生み出す?

情緒(emotion)に関する心理学的研究の冒頭では、その重要さにもかかわらずまだ分かっていることはあまりに少ないという断り書きが常套句になっています。目に見える刺激と反応だけを注目する心理学研究の手法からすれば、それは当然ともいえます。一般に、人の視覚は外に向いているので、外の目に入るものに注意を向けるのが通常で、自分のこころの中に目を向けることは、ひとりになって、その必要に迫られた場合に生じるだけでしょう。フロイトにはじまる精神分析、探索的・表出的、洞察的な心理療法は、その必要に迫れているか、自分自身に目を向けるという作業に同意する患者さんたちとの関係をとおして気もちと考えとの関係についての知見を積み上げてきました。それは実験的手続きで得られようもない、ひとりの人の血脈をとおした語りから積み上げられてきました。情緒的なもの(気もち)は、行動の引き金で「!」という形の衝迫の感覚を伴ってある方向に考えや行為を導きます。人は情緒の導く方向に動くのか動かないのか、そして動くとすればどのように動くのがいいのかどうかを考え、判断しています。ですから、この感じるものがないと、行動を起こすこと自体が大変むつかしいことになりますし、その勢力が過剰だと極端な行動に走りがちになります。

私がまだ中学生のころに“Born Free”(『野生のエルザ』)という、ライオンを野生に返す努力を綴った記録が映画化され(1966)、その主題歌はマット・モンローという甘くて艶のある声をした男子歌手で大ヒットしました。古い話ですみません。壮大な自然環境の中でこそ生まれ育つ野生を賛美しながら、「君はその中でこそ生きる価値があるんだ」と謳い上げたあとに、「でも、生きる価値があるというだけなんだよ、だって生まれつき自由なんだもの(拙約)」と、「ん?」という余韻を残した終わり方をしています。「野生」というと、サヴァイバルと関連した本能的な装置で武装された生き方が連想されますが、本能の命じるままの生の営みはしばしば『無垢なる世界(Mond Candid)』として郷愁的に描かれてきました。感じるままに、自由に生きたいというおとなになった人間の感傷がそうさせるのでしょう。

生物としてのヒトは本能装置を備えながらも、それに支配されるところが少ないという点でより「自由」だという考えが自律に価値をおく西洋思想の根底に流れています。古くはエピキューリアン(快楽主義者)もストイック(禁欲的)な学派も、肉体をもつゆえの本能欲求に対して、前者は飽和によって麻痺させる、後者は抑え込み打ち克つことで精神の自律的自由を志向していたのです。20世紀になって、人は「自由」へと投げ出されており、その「自由」の負担から逃れようとする存在だという思想が強くなりましたが、人という存在を理解するためには身体性に規定された人の世界との関係の持ち方のありさまをつぶさに観ることが求められました。フロイトの発見は、20世紀の思想にも大きな影響を与えたとされますが、それは意識的な価値観や意識の活動よりも、本能(欲動)に根差した無意識(身体性)の過程をより人間的で根本的なものとして提示したことが衝撃だったのです。

本能欲求(欲動)は常にその充足へと生体を駆り立て、充足に伴う満足(快=よい)と渇望状態(不快=わるい)という内的体験をもたらします。人もみなこの二分法的な内的体験から出発してこころを構成していきます。当クリニックのトップページを飾るウィニコットは、フロイトの流れをくみながら独自の治療関係論、人間観を提示した高名な精神分析家ですが、彼はラジオ番組や講演などを通じて育児につながる社会的啓蒙活動も多くしていました。精神分析の専門家としての彼の講演に集まった聴衆から、長く体の世話の話を続けるウィニコットに対していつになったらこころの話になるんだと聴衆から質問されて、づっとこころの話をしています、と答えたという逸話があります。不満体験がまったくないと、おそらく時間感覚が生じないのではないかとフロイトは言っていましたが、「期待して(想像しながら)待つ」という希望の維持と不満への耐性は、思考し判断する力とともに育ってきます。それでもやっぱり「情に掉させば流される、知に働けば角が立つ、とかくこの世は生きづらい」のです。解放されたい!という想いがどこかにあるんでしょうねえ。

(文:弘田洋二)