臨床コラム 沈黙の声を聴け

「お仕事って何をされているんですか?」と普段の生活で尋ねられて困っている同業者も多いのではないだろうか。
「臨床心理士…まぁ…カウンセラーみたいな仕事をしています」と答えるとすれば,十中八九,こう返ってくる。
「へぇー,シンリガクっていうやつですね,じゃあ心を読めるんですねー」と。

この言葉への応答は大きく分けて二つ。不真面目に対応するか,真面目に答えるか。

僕自身は,ちゃんと説明するのがもうめんどくさくなっているので,日常生活では「うん,読める,読めちゃうんですよー,でも読め過ぎても困るんだよね…」などと,ある種の哀愁でも漂わせながら答えるようにしている。「そう,人の心など,読めても苦しいだけなのだから…」などのメッセージを言外に含ませるような声色やトーンで応えられると,なお良し,である。

さて不真面目に対応するのはここまでにして,真面目に答えることにしよう。
そもそも,「読む」といっても,心は紙に書かれた文字のように読み解けるものではない。さながら文章のように読めるほど,心は明確な形をとってはいない。どうしても「読む」という表現にこだわるのならば,その対象は心ではなく,表情や心の「動き」となるのではないだろうか。
心理学者ポール・エクマンは,表情や感情研究の第一人者であり,長年の研究経験の積み重ねの結果,表情の動きから感情を読み取ることが可能になった人間である。その炯眼のため,米国FBIから調査依頼が来るほど。
ところで,表情というものは顔面の筋肉でできている。テニスプレーヤーの利き腕が長年の使用によって長くなるように,水泳選手の手指のあいだの水かきが常人よりも大きくなるように,人の顔もよく使われる表情筋の歴史を反映している。幼少の頃よりよく笑っていれば,大人になった普段の表情もどこか微笑みをたたえたものになる。いつも怒っている子どもならば,将来の相貌は怒りに満ちているのだろう。顔とは,その人の感情体験の歴史が表現されたものなのである。
「人の心を読む」うえで最も優れた能力をもつポール・エクマンだが,あるインタビューで次のように答えたという(伝聞なので正確ではないが)。
「人の感情が読めても,嘘を見抜けても,ちっとも幸せではない」と。

もう一つ,日頃の経験から,この心理臨床というお仕事で重要なのは,眼ではなく耳ではないかと思っている。見えないものを見抜く心眼ではなく,語られない,語ることができない声を聴き取る「第三の耳」こそが大切な気がしている。「心を読む」ではなく,「声を聴く」ことこそ,このお仕事の最重要事項であると思う。
最初期の精神分析家テオドール・ライクは,その著書『第三の耳で聴く』のなかで次のように述べている。

The Psychoanalyst has to learn how one mind speaks to another beyond words and in silence. He must learn to listen “with the third ear.” It is not true that you have to shout to make yourself understood. When you wish to be heard, you whisper.(Listening With The Third Ear, p. 144)

おっと,日本語に直さないと。マイルドに訳せばこうなる。

言葉を超えて,沈黙のうちに,ある心がほかの心に向けてどのように語りかけるものなのか,臨床家は学ばなければならない。臨床家は「第三の耳で」聴くことを身につけねばならない。自分のことをわかってもらうには,大声をあげるしかない,というのは本当のことではない。本当にわかってほしいとき,人はささやくのである。

一度は哲学を殺しかけた男,ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは,神や宗教などのように,言語を超えた事物や事態についてこう述べた。
「語りえぬものには沈黙しなければならない。」
Whereof one cannot speak, thereof one must be silent.

僕らのお仕事というのは,ある種,このように言葉では語りえぬもの,言語では言い尽くせない領域にたゆたっているものを,沈黙のうちに聴き取る営みなのかもしれない。

(文:筒井亮太)