臨床コラム 「普通」考:当たり前のこと,あるいは到達しがたい極地

 「普通に考えたらわかるでしょ?」とか,「こんなことも普通にできないの?」とか,「普通じゃないよね」とか,とかくに「普通」っていう言葉は,否定的な文脈で顔を出しやすいらしい。もちろん,肯定的な場面にも登場の機会はあるのだろうけれども,どうも「普通ではない」という打ち消しを伴う表現で耳にすることが多い気がする。

 広辞苑を引くと,普通とは,「他の同種のものとくらべて特に変わった点がないこと。特別でなく,ありふれていること」とある。なるほど。しかし,よくよく考えてみると,何をもって「普通」と判断できるのだろうか。「これが普通の典型例です」というのがあれば,ぜひとも教えてほしい――思い浮かべるのが難しいのではないか。「うん,これは普通だ」と判断しても,「おや? ここは少し特殊だな」と思うかもしれない。「普通」と思える部分があっても,「普通ではない」部分もあったりする。それらもひっくるめて,当たり前,つまり「普通」なのかもしれない。

 つくづく「普通」というのは厄介だ。事実,このように文章を書きはじめている私自身が暗中模索,答えが定まらない感覚を味わっている。万人受けするような「普通」像の提示は,どうもできそうにない。

 とりあえず,このように考えてみる。普段,私たちは当たり前のように呼吸をし,酸素を吸入している。周囲の空気中に酸素が存在しているのは普通のように感じられ,まったく気にも留めずに過ごしている。けれども,ひとたび,なんらかの事情で酸素が乏しい状況に遭遇すると,急速に酸素を求める必要性が切迫する。それまで背景に退いていた酸素のニードが最優先事項として前景化する。「普通」というやつは,危機に脅かされたり,突如として失ったりすると,途端に意識に迫り出してくる。

 「私は普通じゃない」という発言,「普通になりたい」という吐露,「普通ってなんだろう」という疑問,それらは,自身がすでに抱いていた「普通」の感覚の危機を示すサインなのである。なにかがまずいことになっている。そういう感性の表現である。

 それでは,酸素不足に際して酸素を求めて吸入すれば事態が解決するように,「普通じゃない」人が普通というものを再獲得して「普通」の人になればよいのか。残念ながら,事はそう単純ではない。普通という事態の崩壊と再生のドラマを描き出している,映画『普通の人々』にあるように。

 「普通」について考えれば考えるほどに,わけがわからなくなってゆく。手に入れようと思い,探し求め,ついに獲得したかと思うとするりと手のうちから抜け出してしまう,捉えようのない対象aのようなものである。みなが「普通」になりたがっている――「いや,私は特別になりたいと思っている」という反論もあるだろうが,それとて「普通」というコインの表裏なのである。

 じゃあ,わけがわからない「普通」なんてものは考えずに過ごせばいいという発想もある。私が思うに,一度も「自分が普通なのかどうか」という問いを発することなく天寿を全うすることができる人がいるとすれば,その人は相当の幸運であるか,なにも見えなくなっているのか,のどちらかである。

 「自分が普通なのかどうか」なんていう問いは,麻疹みたいなのもので,自己が確立される途上では誰もが一度は被るものなんだ。そういう発想ももちろんある。問いそのものをノーマライズ(普通化)してしまうというわけだ。「普通」は,みなが求めるからこそ市場価値がつくブランド商品のように,いつしか高級品になってしまっている。そうだとしたら,実のところ,そこまで求める必要がない,無用の長物なのではないか。普通獲得競争から降りること。これも一理あると思う。実体のない「普通」概念に踊らされることなく,ありのままの自分を受け入れていくという言説を採択するというのも手である。

 しかし,ちょっと待ってほしい。そもそもの問いの背景には,なにかしらの「喪失感」や「危機感」があったのではないだろうか。誰しもがかかる麻疹だとしても,誰でも求めてしまう市場商品だとしても,確実に自分が感覚して体験しているその感覚まで放棄することはない。考えつづけることがひとまず大事なのだろう。そう自分に言い聞かせておいて,ここで一旦,擱筆とする。続きはまた今度。

(文責:筒井亮太)