臨床コラム 『オペラ座の怪人』〜対象喪失という体験がもたらすもの〜

『オペラ座の怪人』と聞いた時,あなたは何を思い浮かべますか?ファントム?それとも,フィギュアスケートで使われた美しい音楽?『オペラ座の怪人』は,フランスの作家ガストン・ルルーが書いた小説のタイトルで,何度か映画化され,舞台で上演されてもいます。ここでは,私が観た映画『オペラ座の怪人』のあらすじを一部紹介し,対象喪失という体験がもたらすものについて,思うことを述べていきたいと思います。

 ときは19世紀。オペラ座のコーラスガールのクリスティーヌ・ダーエは,毎日のように歌と踊りのレッスンに励んでいた。彼女は幼い頃,ヴァイオリニストである父親を亡くし,寄宿舎生活を送っていた。父親は生前,「私が死んだら,お前のもとに“音楽の天使”をつかわせよう」とクリスティーヌに約束する。父親の死後,夢か現実か,彼女のもとに音楽の天使(オペラ座の怪人)が姿を見せずして現れる。そこで彼女は,その音楽の天使から厳しいレッスンを受けるようになっていく。オペラ座の歌姫として君臨するカルロッタが歌うと,そのオペラ座で奇妙な出来事が相次ぐようになる。ある時,カルロッタが舞台稽古をしていると,オペラ座の天幕が落ちてきてカルロッタがその下敷きになる,という事件が起きた。業を煮やしたカルロッタは稽古を途中で投げ出し,役を降りてしまう。その代役をクリスティーヌが務めると,観客から拍手喝采を浴び,舞台は大成功を収める。オペラ座の共同オーナーになったばかりのラウル・シャニュイ伯爵は,彼女の舞台を観て,歌姫が幼なじみのロッテ(クリスティーヌの愛称)だったことを思い出す。再会した2人はたちまち恋に堕ちる。ところが,オペラ座の怪人がついに彼女の前に姿を現し,彼女を自分の住みかであるオペラ座の地下室に連れ去り幽閉しようとする。クリスティーヌを歌姫として育てている間,オペラ座の怪人も彼女に恋をしていたのだった…。

 まるで三角関係を思い起こさせるような場面であらすじを止めますが,この関係については,コラムの順番が私に回ってきたときまで持ち越すことにします。さて,クリスティーヌの父親は,「私が死んだら,お前のもとに“音楽の天使”をつかわせよう」と生前に彼女と約束を交わしています。そして父親の死後,彼女のもとにその音楽の天使が姿を見せずして現れます。声の主はだれなのでしょうか?(もちろんオペラ座の怪人ですけれど…)彼女は,現実の世界で音楽の天使を見ていないのです。それなのに,得体の知れぬその声の主から厳しいレッスンを受けるようになっていきます。ここではいったい何が起こっているのでしょうか?これまで自分の近くにいた人が亡くなってしまう,あるいは,大事にしていたモノを失くしてしまう,といった喪失体験は,その人の生き方に何かしら影響を及ぼすものでしょう。対象喪失(object loss)。ここでいう対象とは,愛情・依存の対象をさします。

 米国の精神分析学者George L. Engelは,『すでに対象喪失が現実に起こっているにもかかわらず,心の中では,対象を手放そうとしない心の部分を,「対象を失っていく部分」,対象の喪失は,もはや動かしがたい現実とあきらめ,この現実を受け入れてしまった心の部分を「対象を失った部分」と呼び,対象喪失の心理過程は,常にこの二つの心の部分から成り立っている』と言っています。

 クリスティーヌが,声の主を,父親がつかわせた音楽の天使と錯覚したのなら,たとえ姿が見えなくても,その声の主に無意識に従ってしまうのは無理のない話かもしれませんし,オペラ座の怪人そのものに自分の父親の姿を重ねている部分があったのかもしれません。これが,George L. Engelのいう,父親を手放そうとしない彼女の心の部分だろう,と私には思えます。手放したくない,という対象への愛情や依存の度合いが深ければ深いほど,こうした見えないものの力はその人を錯覚の世界へ引き込むことがあるのでしょう。そして,クリスティーヌがラウルと恋に堕ちたのは,父親の死を動かしがたい現実とあきらめ,彼女が現実の世界を見ていたからそうなった,と考えられます。「対象を失っていく部分」と「対象を失った部分」,この二つの心の部分の成り立ちは,心の中に対象が存在しなければ成立しないものになると思います。対象喪失を体験するには,対象がその人の心の中に連続して存在していることが必須条件になることでしょう。クリスティーヌにとって父親は,まさにそのような対象だったのだろうと想像がつきます。対象喪失という体験がもたらすものは,哀しみ,苦しみ,怒り,憎しみ,といった感情だけでなく,人を愛し,また,人から愛されること,人に頼れること,楽しめること,喜べること,こうした能力を育ててくれる体験につながるのではないか,と私は思います。錯覚の世界を抜け出して現実の世界を見るのができること,また,錯覚の世界に没頭できる時間と空間があること,そのどちらも体験できる領域があるとその人がその人らしく生きていけるのだろう,と思います。

(文:作山洋子)