臨床コラム ヘーゲル,ダントー,ボラス

 プラトンは,アートについて,ただ美しいと見えるものを模倣するのみである,と述べた。たしかに私たちは,フェルメールの風景画を美しい,と感じる。話は単純である。美しい実物に似せれば,美しい。

デルフトの眺望:https://en.wikipedia.org/wiki/View_of_Delft#/media/File:Vermeer-view-of-delft.jpg

 しかしアーティストたちにとって,ことはそう簡単ではない。彼らは,格闘し続ける。自分たちの仕事は,対象の創造であるのか,それとも対象の模倣にすぎないのか。

 ウォーホルの天才は,このテーゼを打ち破り,新たな地平を拓いた。『ブリロ・ボックス』である。

ブリロ・ボックス:https://www.moma.org/collection/works/81384

 それは食器洗いパッドを入れた外箱を,精巧に模した彫刻である。スーパーに陳列されるそれと,美術館に展示されるそれに,見た目の違いはない。まさに模倣を目指したそれは,プラトンによる解釈としては,極致にある。模倣と対象に見た目の区別がつかなくなるとき,アートは終着点にいたる。模倣にそれ以上は,ありえない。

 しかし作品を目にすると,私たちは,はたと止まる。美しいから,ではない。戸惑うからである。

これはなんなのだ?

 このとき私たちは,ウォーホルの拓いた地平にいる。スーパーのなかで,実物を前に立ち尽くすことは,ない。実物をこの精巧な模倣物に置き換えても,同じだろう。しかし美術館に置かれた『ブリロ・ボックス』は,模倣を超え,実物すら超える。そこには,創造がある。それが,私たちを考え込ませる。

 セラピーは,この状況に似ている。私たちは,自分を日常の文脈から切り離し,語る。自身を語りのなかに模倣するところから,自身を超えるなにものかが現れる。そして,考え込むことになる。

 セラピーの始まりに,患者に基本規則を伝えるよう,フロイトは求める。「頭に浮かんだことは,すべて話してください。」考える,ではない。話す,である。未知なる自分という経験へ参入するために,それはある。いわゆる内省の場ではない。そこには,はっきりと違いがある。セラピーによる創造に,考え込むことはあるだろう。審美的な瞬間である。それは語った結果であり,考えた結果ではない。

 カントは,アートについて,ことばによって規定された概念のもとに表現しうる以上のものを考えさせ,そのことをとおして概念を美的に拡張する,と述べた。たしかに私たちは,考えさせられる。そのことをとおして,自分という概念を美的に拡張するのである。フロイトの技法は,アートの領域にある。

(文:増尾徳行)