臨床コラム ヴァーチャリティーの不思議から

 もう30年くらい前になるのかと思うと時の流れに驚きますが,「たまごっち」というゲーム機器が流行ったことがあります。小さな液晶パネルのなかの一群のドットが,卵からヒヨコに変化して成長させていくという筋書きがあって,一定期間放っておくと死んでしまうと設定になっていました。液晶の中のドットの塊は,ヒヨコとだと言われても困るような見栄えのもので,今のスマホの液晶画面のリアリティーとはかけ離れたものでした。当時職場の同僚だったケースワーカーのおばさんがそれにはまっていて,そのヒヨコが風邪をひかないようにハンカチをかけてやって寝ているなど余念なく世話をしているといって,見てくれと言ってそのドットの塊がうごめいているのを見せられた記憶があります。この単純な器機が大いに売れたのですから多くの人が似たようにドットを生き延びさせることに夢中になったのです。そのおばさんはまるでかわいい赤ちゃんを世話するように,布団をかけてやるという行為を模した行動までしているというのがおもしろいところでした。画面上のドットにはそのようなやさしさを引き出す特徴はなかったので,この優しさを引き出したのは想定されたストーリーとその中にある命名に使用された言葉によって,おばさんのなかにすでにあって浮動していた「かわいらしい」,「世話したい」という気持ちがドット上に結実したということでしょうか。

 いまのロボット作りにおいて,人間の外観に近づけるという方向の研究も進んでおり表情変化という微細な動きや材質感も実際の人間のそれに近づいているようです。その近似性が進めば進むほど奇妙な違和感が生じるのも不思議ですが,今の技術でリアルな卵とヒヨコの映像へとヴァージョンアップさせたらその商品はリヴァイバルヒットするでしょうか?おそらくしないだろうと私は思います。それらしいという近似性の要素は欲動の代理対象には必要でしょうが,遊び(内的創造)の道具としては余分なのだと思います。遊びを導き出す力は,現実のそれらしさとは異なったものです。以下,ある発達心理学の先生の興味深い観察を紹介しておきます。

 お母さんと幼児の「電話ごっこ」遊びの場面について,お母さんがバナナをもって受話器のように耳に当て,子どもの目をとらえて「もしもし」と呼びかけます。すると,子どももすぐにバナナを手に取ってお母さんとおなじように「もしもし」と笑顔で答えます。子どもが,バナナを受話器に見立てて遊ぶことを可能にしたのは,子どもの目をとらえてお母さんが「さあ遊ぶよ」とうっそっこのモードであることを伝達したからだと説明されています。電話機のおもちゃでなくても電話遊びはできるという点では,そこに超越的な要素もあります。もし,この視線による合図なく,母親がよそ見しながらそれをはじめると子どもは非常に困惑するといいます。このような交わされようとしているコミュニケーションがどのようなものか,自分がしている行動はどう読み取られるべきかを示す上位のメッセージがコミュニケーションにはつきもので,それが遊びモードへと子どもを導入しているというわけです。あのどうにでも言えそうな原始的なドットの塊は不思議なメタ・メッセージ性をもっていたのか?

(文責:弘田洋二)