臨床コラム 二、三の出来事と雑多な考え

今年,大阪にバンクシー展が来た。そこでの一つの光景から始めたい。小学校高学年か,中学生になりたてくらいの少年が『Di Faced Tenner』の前で熱心にそれを眺めていた。周りの大人たちはもれなくスマホで写真を撮っているのだけれど(アンチ資本主義のバンクシー作品を資本主義の象徴であるiPhoneで撮るなんて,割と皮肉だと思いませんか?),彼はそうはせずに,”穴が開くほど”というのはこういうことを指すのだろうというくらいに釘付けになっていて,その光景は私の目をひいた。ふと彼に話しかけてみたくなる。Di Faced Tennerは偽の10ポンド札で,裏には”Trust No One”とプリントされているのだが,「これってどう思う?」「信じるってどういうことだろうか?」「私たちはある程度,天気予報を信じるけれど,それは背景にある科学的な何かに対してであって,きっとお天気キャスターを信じているわけではないしね。ところで僕はサイコロジストなんだけど,そうすると心理療法を求める人は何を信じて来るのだろう? 心理療法の背景にある理論なのか? 資格なのか? それだけじゃ十分じゃないと思うんだけれど,どこの誰か分からない人に自分のことを話し続けるのは客観的に見れば不思議な話じゃない?」とか。結局,私は彼に話しかけなかったし,彼は満足して(あるいは変なおじさんの視線を感じてだったら,申し訳ない)どこかへ行ってしまったので,私のこの問いは宙ぶらりんになった。

また別の話。先日,インタビューを受ける機会があった。そこで「どうして今の仕事をしようと思ったのか?」「あなたにとって,働くとは?」と尋ねられて,私の頭の中では”プロフェッショナル”のBGMが流れたのだが,それは置いておくとして。このようなことを尋ねられること自体,サイコロジストというのは変わった職業なのかもしれない。あるいは,多くの人からするとそうしたことが身近じゃない,馴染みがないからなんだろうと思う。働くことに関しては,精神分析を実践する人間なら誰しも思い起こす質問と回答がある。Freudが,「人間として,なしえなければならぬものは何だと思うか?」と問われて,「愛することと働くこと」と答えたというあれである。働くことには達成感や人との出会いといった愉しみがある反面,しんどい時もあるし恨みも妬みも起こり得る。それだけ捉え難い,生きるうえでの人間の本質に関わる営みなのかもしれない。皆さんは何で働いているんですか?

と考えていると,『ゴドーを待ちながら』の一節が目に止まった。

ヴラジミール 生きたというだけじゃ満足できない。
エストラゴン 生きたってことをしゃべらなければ。
ヴラジミール 死んだだけじゃ足りない。
エストラゴン ああ足りない。

生きるためにはお喋りのペアが必要で,死ぬためにもそうらしい。しかし,死んでしまうとお喋りはできない。どういうことだろう?
という,問いもまた宙ぶらりんになる。やっぱり相手が必要だ。

(文責:石田拓也)