臨床コラム 今を生きてみる

 コラムを書くということが決まり、何かネタはないかなぁと思いながらふと本棚を眺めてみると、2年ほど前に買ったけれど長らく読まれずに本棚に温められていた本が目に留まったので今回はその本を読んでみて感じたことをつれづれなるままに書いていこうと思います。

 手に取ってみるとまあまあな重量感があって、半裸の男性が3人こちらを見つめている様子が表紙になっているその本には、アマゾンに暮らす少数民族である『ピダハン』の文化について書かれています。著者はアメリカ人の熱心な宣教師で言語学者であるダニエル・エヴァレット。その地でキリスト教を広めようと悪戦苦闘しますが、最終的には無神論者へと導かれてしまうほどにピダハンの文化に衝撃を受けてしまうというお話です。ここまでをあらすじで読んで、熱心なキリスト教信者から無神論者になってしまうまでに衝撃を与えたなんて、どんな心惹かれる文化なんだろうとぼや~っと考えながらページを開きましたが、ぼや~と読んでる場合ではないほどに、これは現実世界で起きてること?SFじゃないの?と思うほどに私にとっても衝撃的なものでした。

■「今」を生きる

 ピダハンの世界では私が生きる世界とは全くかけ離れたものでした。私の中の常識では存在するあらゆる概念がない!のです。例えば、数字という概念は存在しません。私たちの多くは、物を数えるときに「1個、2個…」と数えますよね。けれど、ピダハンには数字を表す言語が存在しないのです。どうやって生活してるのか?と思ってしまいますが、かろうじて存在する「たくさん」という単語を使って量を表していたようです。また、黒・白・赤・緑…と言った色を表す言葉もないのです。色を伝えるときには、例えば赤だったら「それは血」と言ったり、緑だったら「いまのところ未熟だ」と単語ではなく句で表現するようでした。ここまで来て、そんな便利な概念がないなんて生活するのに不便じゃないのか?などとか考えながら読み進めていくと、著者がピダハンの人々は遠い将来の話や昔のことは話さず、「今」に着目して生きていることに気づかされるフェーズに辿りつきました。ピダハンは過去・未来の概念を持たないのです。未来について思案したりしないので、将来のために食料を保存することもないし、備蓄が減ってきたからと言って狩りをしなければ…とか思うこともない。過去に起こったことを後悔したり思い悩むこともないのです。それよりも、今は踊りたいからと言って踊ったり、眠いから寝たりしちゃうようなんですね。ここで著者はピダハンの生きる世界は【現実に体験していること(→直接体験)しか知覚しない】ということに気づかされます。色も数字も、共通の性質をもつものをひとまとめにして恣意的にコード化したものであるから現実とは異なるし、過去や未来は今起こっていることではないからそこに重きを置かないのだそうです。すべては「今」を生きている自分に価値を置いて生きているのです。それがあってか、著者によるとピダハンの人は皆笑顔で悩みを持つこともなく、とても幸せに見えたそうです。

 このコラムを読んでいるであろう多くの人は、昔に比べたらあらゆる概念が生まれ、色んな便利なものも発明されたある程度快適になった世界を生きている人だと思われます。しかし、その豊かさの代償として悩みや不安が生じているのかもしれないとも思うのです。過去を振り返って、「あぁしとけばよかった」と後悔したり、未来を想像して「こうなったらどうしよう…」と不安に思ったりもするでしょう。それは、ピダハンの世界観に触れたあとに考えてみると、私たちが「今」に目を向ける機会が少なくなってきているからかもしれないと思わされます。過去や未来について考えなければいけないことが多すぎるばかりに、「今」が蔑ろにされているというのは大いににあるなぁと自分の生活を振り返ってみても感じました。あ、今も「今」じゃなくて過去について考えていますね。

 私を含めた多くの人がピダハン族ではないのでピダハンの生き方に没入することはできないと思いますが、少しだけピダハンの視点をお借りして「今」を生きる自分に目をむけ、自分がどうしたいのか、何を感じているのかということに耳を傾けてみるのもいいかもしれないとこの本を読みながら感じていました。なんだか長くなりましたが、踊りたいときに踊ってみたり、寝たいときに寝てみたり、、、ピダハンの人々の様にはいかないかもしれませんが、今の自分を大切にしてみることで何らかの気づきが生まれたりするのではないかなと今はぼや~っとそんなことを考えています。

(文責:守屋彩加)