臨床コラム 傷つけること、傷つけられること

私たちは、生きていると否応なく人と関わることになる。

その中で傷つくこともあるし、傷つけられることもある。近づけば近づくほど、親密になれば親密になるほど、傷つくかもしれない、と思う。だから、人と関わることが怖くなることもあるし、恐怖ゆえに避けることもある。

親密になることが、なぜか分からないけれど、怖い。だから、他者と親密になることをできるだけ避ける。距離を置く。そして、一応の安心を得る。

これは、馴染みのある、よく知られた、こころの動きであるように思う。

その一例が、映画シザーハンズである。主人公は、発明家の博士によって生み出された人造人間エドワード。だが、完成直前に博士が急死してしまったため、彼は両手がハサミのままこの世に残されてしまう。そして、手がハサミであるために、顔傷だらけになってしまいながら、大きな屋敷に1人ぼっちで生活を送る。

ある日化粧販売員のペグに誘われて、彼は町に降りることになった。ペグの家で生活する中で、彼はキムという女の子に恋することになる。不器用ながら、彼は彼女に関心を向け続けた。彼女の友人に利用されたり、だまされたりしたことがあっても、それでも関心を向け続けた。人に裏切られたり、傷つけられたりして、怒りを覚えることもあった。それでも関心を向け続けたために、キムとの恋が実るかのように思われた。しかし、あるクリスマスの日、意図せずキムに怪我を負わせてしまった彼は、キムの元交際相手に追い出されてしまう。キムと再会した際に、彼女は彼に「抱いて」という。しかし、彼は「できないよ」と答える。近づくと傷つけてしまうかもしれないから。手がハサミであるために…。その後も、事故に遭いそうな弟を助けようと抱いたときに、弟を傷つけてしまう。手がハサミであるために…。

彼は慣れ親しんだ大きな屋敷に帰ることになる。画面は色彩豊かな映像から、白黒の世界に切り替わる。だれもいない、その屋敷で彼は1人生活を続ける。キムのことを思いながら…。

エドワードにとって、人と関わることのない、1人での生活は安全なものかもしれない。色彩がない白黒の世界は、情緒交流のない世界をあらわすのだろうか。情緒交流のない世界は彼にとって、安全な世界かもしれない。けれど、“さびしい”と感じるところがあるのだろう。彼はペグが家にやってきた時、立ち去ろうとするペグを「行かないで」と呼び止めた。彼は屋敷に戻った後も、キムのことを想い続けた。

最近みた映画アナと雪の女王でも同じ印象をもった。こちらは塔の上の生活には戻らないのだが…。親密になると、手が触れる距離くらい、心理的にも近くなると、傷つく。親密になるのを避けて生活する。2つの映画で、最初エドワードは山の上の大きな屋敷に住み、アナは城の上で住むのだ。“さみしい”と感じながらも…。

やはり私たちに馴染みのこころの動きなのだろう。思春期に、他者との交流を好まなくなる、こころの状態を経験した方は多いかもしれない。今、このコラムを読んでいただきながら、思い至る部分がある方もいらっしゃるかもしれない。では、なぜそのような心性になったのだろう?“あの友人とのことが…”、“交際相手との関係が…”などなどいくつか頭を過るものがあるかもしれない。けれど、多くの場合、明確に説明できる理由はあるだろうか。エドワードの場合は、やはり博士が手をハサミにしたからだろうか。ハサミのまま死んでしまったからだろうか。ハサミのせいで人との距離が近くなることで人を傷つけてしまう、と不安なのだろうか。結局なぜなのだろうか。

そして、変化は訪れるのだろうか。アナと雪の女王では、アナは最終的に扉を開けて、生活することになった。シザーハンズは色彩豊かな世界を経験しながら、最後は白黒の屋敷に帰っていく。それでも、エドワードは生涯キムのことを想い続ける。やっぱり変化は生じている。映画の中では、なぜそういうこころになったのか明確な言及はない。それでも、変化は生じるのだ。そして、それはキムとの出会いによるのだろう。変化が生じるのに、恋が必要というのではない。それでも、人と出会い、その中でのなんらかの体験が関係するのだろう。

変化が生じるのは、セラピーの中かもしれないし、もっと違う出会いの中かもしれない。ただ、セラピーの中では、変化が生じる確率は高いように思う。いずれにせよ、変化は起こるだろう。物語の中でのお話にしておくのは少しもったいない気がする。

(文:川崎俊法)