臨床コラム 意味の船、その船出

 いまのところ、少なくとも私のコラムについて、「興味深いです」「これを読んでこのクリニックに行こうと思いました」「有料でもいいのでメルマガにしてください」「書いてあることがおかしいです」「反対です」「面白くありません」「もっとこう考えるべきです」「誤字脱字があります」「論旨が一貫していません」「内容が乏しいぶん文章表現で煙に巻いていますよね」「同業者として恥ずかしいです」「UIが使いにくいです」「ギガを無駄にしました」みたいな反応をもらったことはない。いったいこのコラムが誰に読まれ、その人がなにを感じ、どんなことを考えたのか、なにもわからない。それにTwitterのようにリプライがあるわけでもないし、ブログのようにコメントがつくわけでもない。これはこのコラムの構造的な性質上そうなっているのでどうしようもないことではあるけれど、それではなんのためにこのコラムがあるのか、ということにもなりかねない。

 それでも、こうしていろんなスタッフがいろんなコラムを書いているということには、なにか意味があるかもしれない。もっと厳密に言うなら、なにか意味を生み出すことがあるかもしれない、あるいは、なにかの意味が生まれる可能性が0ではないかもしれない。

 意味とは、最初からそこにあるものではなく、生まれてきたり、持たせたりするものである。意外とそんなふうには考えられていない。あらたまって、考えられることでもないのかもしれない。意味とは、辞書に書かれていることである、という捉え方をするほうが、一般的なのかもしれない。

 例えば、これはただの平面的な黒い円である。しかしもしこれが、「自分の中にある虚無感を描いた」という言葉とともに現われたら、もはやただの黒い円ではなくなり、ただならない黒い円となる。「虚無感」を象徴するものとなるし、形を得て、可視化されることで、これから「虚無感」と呼ばれることになる主観的で簡単には共有しがたい経験が、言葉になる。

 これは黒い円として、心の経験が可視化されたものだけれど、何もそれは視覚的な世界にかぎるものではない。

「自分には、なんとも言えない不安がある」

 これは視覚的には文章だし、もし会話の中でなされたら音の連なりとなる。この文章や音の連なりは、発話者の心の内にある経験を、言葉に変換して、形を得たものである。

 これは当たり前のことに思えるかもしれないけれど、言葉は、その言葉で表現しているそのものではない。

 言葉とは、あくまで、なにかを置き換えるための道具であり、置き換えられた結果である。

 内なる体験を黒い円で描き、それを「虚無感」と名付けるのも、内なる体験を「不安」と名付けるのも、経験をそれらの言葉で置き換えるということが起こっている。

 言葉にすることで、意味が生まれてくるのは、こういうところである。(ここまで書いてみて、前のコラムにも同じようなことを書いた記憶が甦ってきた)

 これは、自分の中の辞書を作る作業のようなものかもしれない。

 辞書には言葉の意味が集積されている。もともとそこに言葉と対応する意味とがあったのではなく、音の連なり──文字──意味、が結びつけられて、私たちが、制限の範囲内で、自由に使うことができるものになった。制限とは、主に言葉のルールとして暗黙されているものである。

 じつのところ心理療法という作業は、表向きの言葉の制限をけっこう破っている。

 猫は猫である。猫は現実的存在としての猫でしかなく、猫とは私たちが猫と認識しているある存在を差す言葉である。けれども心理療法の中で「猫」が登場するとき、その「猫」はただ現実的存在としての猫ではないかもしれない。「猫」には、現実的存在としての猫を超える意味が、込められているかもしれない。それは「自由」とか「気まぐれ」とか「反抗」とか「ぶりっ子」とか「警戒心」とか「孤立」とか、いろんな意味が与えられている「猫」であるかもしれない。

 どういうことかというと、語られる「猫」は猫であるが、その人が意味するところにおいての「猫」なのであり、ただ猫ではないかもしれない。

 ある「誰か」について語りながら、それはその「誰か」に限らないことをも、語っているかもしれない。

 より日常的な言葉遣いと、心理療法の言葉遣いの違いは、こういうところに「も」ある。

 不自由なことに、私たちは意味を求めないではいられない。

 生きる意味、人生の意味、自分がいる意味、といった実存的な問いかけを、私たちは自分にしないではいられない。

 問いかけることは、意味を生み出す、持たせるための、勇気ある船出である。
 「なんで自分はこうなのか」という問いかけでもいい。
 「なんできみはこうなんだ」という問いかけでもいい。
 なにかを自分に問いかけてみることで、なにかが生まれてくるかもしれない。
 もちろん、なにも生まれてこないかもしれない。
 もし生まれてくるとしても、それなりに時間はかかる。
 私たちは10ヶ月かけて、それでもなお未熟な状態で生まれてくる(生理的早産といわれます)。
 やっとこさ生まれてきても未熟だし、そしてどれだけ時間をかけて生きてみても、未熟なところを残し続けている。

 そんな私たちが、簡単に意味を生み出せるわけもない。
 これを悲観と見るか、希望と見るか、あるいは別の意味を見出すかは、私たち自身に問われている。
 誰に、なにに、問われているのだろう。
 もちろんそれは────。

(文責:淺田慎太郎)