臨床コラム 本を読むこと

 つい最近、久しぶりにある作家の小説を読んだ。“久しぶり”は、“読んだ”にも、“ある作家”にもかかる。

 昔は手当たり次第というほどではないにせよ、よく小説を読んでいたのだけれど、気がつくとほとんど読まないようになっていた。確かに専門書を読むようにはなったし、仕事に費やす時間も増えた、その他にも自分が色々と気兼ねせずに自由に使える時間というのは以前に比べれば随分と少なくなったように思う。かと言って、本を読む時間が取れないわけではないのに。以前どこかで同じようなことを言っていた人(誰だか忘れてしまったけど、この手の話は割と多い気がする)がいて、その人は仕事でたくさんの人の人生についての話を聞くので(そう、確か同業の人だった)それでわざわざ物語を読むことをしなくなった、といった筋の説明をしていた。その時の私は、まぁそんなもんかなと思って聞き流していたのだが、改めて考えるとそれは私にはあまりフィットしないようだ。

 この作家の作品は、学生の頃に熱を入れて読み漁っていて、当時に出ていたものは全て読んでいたはずだ。その後にしばらく読まない期間があって、たまに気が向いた時に買い直したり、運が良ければ本棚の奥底で埃をかぶっているのを見つけたりして、読んでいた。

 そして今回である。たぶんこの作家の作品を手に取ったのは数年ぶりで、その内容はさておき、どうしてこういう読み方をするのだろう?と自分のことを訝しみながら読んでみた。それで何を考えたのかというのは、割と私の込み入った個人的な話になるので割愛するとして、読書は私たちの心のどこかをいろいろな角度から刺激する。それは登場人物や描かれる景色だったり、物語の構造かもしれない。今回の何でだろう?に対する簡単な一つの答えは、「物語は私たちに問いかけはすれど、答えてくれることはあまりない」ということだった。本を読むという行為は、答えを求めて読むのではなく、質問を求めて読む。言い換えれば、すでに形にならない答えは私の内側にあって、そこに辿り着くために質問を必要としていると言えるかもしれない。そうして形を得た答えは、また新しい答えが形を得たときにはその座を譲るくらいの余裕を持ち合わせているし、同時にいくつもの答えを許容するあそびもある。あるいはそこから新しい問いが生まれることもあるかもしれない。

 これはつまり心理療法の話です。

(文責:石田拓也)