臨床コラム 育てることと臨床

以前、育児休暇中に、同僚の心理士スタッフから「今、由良さんが一番臨床をしていますね」という言葉をかけてもらったことがありました。その時の私は、産休や育休イコール休職であって、その間は心理臨床から離れてしまっていると感じていました。そして、そのことに内心焦りのようなものを抱いてもいました。そんな時に上記の言葉をもらったのです。私はその言葉をもらって一瞬だけ固まったのですが、そのあと「確かにそうかもしれない」と思いました。
その時はうまく言葉にすることができなかったのですが、産まれたばかりの赤ん坊を育てることは何よりも臨床だという指摘には何となくそうだなぁと思ったのを覚えています。
心理臨床とは何なんだろうと改めて考えてみたいと思います。教科書的には、心理学の知識を用いて実際の臨床現場で困っている人の援助をすること、という感じになるかと思います。
クリニックにやってきて、カウンセリングを希望される患者さんは、心理的に何かしら困っていて、私はそれを解決していくための援助者という立場です。そこには一見すると、助けを求める者と助ける者という関係があります。

でも私は患者さんを助けることができているのだろうか、と考えると果たして私にできていることがあるのか、分からなくなることも多くあります。もちろん、患者さんにお会いしているときには、自分自身にできることはしようと考えて、色々と考えをめぐらせ、患者さんとの関係の中で何が起こっているんだろうかと考え、治療の中で取り扱うということを意識したり、それを言葉にして伝えたりする努力はしているわけですが。
もちろん、そういったことが直接効果的に働くこともあるのかもしれません。でも、それだけではないこともあるのかもしれないとも思ったりします。私が何か言葉で伝えている内容自体が患者さんに変化をもたらすとは限らず、それこそ何かその場の雰囲気であるとか、その場が「ある」ということ自体に意味があったりだとか。時に、私の言葉が患者さんを変化させたと思うこと自体が傲慢なように思えたりすることもあります。

そうなると、私のしていることって何なんだろうなと考えたりすることがあります。私が患者さんを変えるわけではないのかもしれない。だけど、会っているうちに患者さんが変化していくということは実際あります。では私が何かできたのか?私は、何かできたとも言えるし、何もしていないとも言えるような気がします。もちろん、患者さんと私が会っていること自体を無駄だとはまったく思いませんし、意味のあることだとは考えています。人が変化する時、そこには他者や何かしらの関係性が必要だと思っているからです。私にできることは、その関係性が動く場を設え、そこに居ること。究極はそれなのかもしれないと思います。私が色々と考えをめぐらせてジタバタしているうちに、患者さんは知らぬ間に変化していたり成長していたりするのかもしれません。その動きにいつも意識的でありたいとは思うものの、なかなか自分では気づけないことも多いなと感じるのが現実です。
そして、そのあり方は子どもを育てることにも言えるなと思います。そもそも、心理臨床も子育ても、人間に関わり、その心の成長や変化に向き合うという点で同じですよね。もちろん、仕事上なのかプライベートなのかといった差は大きいのですが。

子どもを「育てる」と言うと、親が子どもをあるべき姿に作り上げていくようなイメージを抱いたりもしますが、実際のところ、子どもは親の作り上げたいような姿になっていくわけではないなとつくづく思います。産まれた時から、人はそれぞれが個性的です。親が色々と考えを巡らせたり、色々な関わりをしてジタバタともがくけれど、それが親の狙い通りに子どもに届くかどうかは分からない。だから、子育てに関しても結局は、子どもが死なないように環境を設えて、四苦八苦しながらその場にいるということが大事なのだろうなと思うのです。
まぁ、結局私が今回こんなことをコラムの題材に選んだのは、ジタバタしながら何とか日々患者さんや子どもに向き合う自分自身を改めて眺めて、自分で自分を励ましたくなったからなのかもしれません(笑)

(文:由良 笑)