臨床コラム 頭山:生きることのリアリティ

私たちは,自分はおおむね理にかなった生き方をしている・・・という空想を,生きている。思っているほどそうでないことの例は,枚挙にいとまがない。

「メールは,読まない。仕事が増えるだけだから。」

「締め切りまで,執筆しない。原稿を山と抱えているから。」

「英語は,話さない。ここは日本だから。」

・・・等々。

論理とは,私たちが行動をあとづけて理解しようとしたことの痕跡である。つまり,自分がとった行動を,もっともらしくみせるための言い訳である。國分功一郎は『中動態の世界』のなかで,意志は行為の原因ではなく,行為のあとから意志があったとみなされるものである,と述べている。私たちは,行動をとったあとで,考える。

 後催眠暗示というものがある。催眠中の被験者に,目覚めたあとに一定の行動をとるようにかける暗示のことである。ある被験者に,地面を這いつくばるよう暗示すると,覚醒後にそうふるまった。彼は這いつくばりながら,「ポケットのコインを落としたので,探している」と説明したという。行動は,後催眠の効果であり,説明は,いわばこじつけである。

 先に挙げた,いくつかの行為に対する言い訳は,日常にみられるささいな例にすぎない。私たちは,かなり非論理的なのである。しかし私たちの非論理性は,この程度にとどまらない。たとえば,このような落語がある。

 頭山(八代目林家正蔵) https://www.youtube.com/watch?v=RLVfseykAOI

 春本番のある日,花見に出かけた吝兵衛。周りはみな,桜の下でどんちゃん騒ぎ。一人その名に違わず,横目に見るだけで飲まず食わず。しかしふと見ると,さくらんぼが道に落ちている。こりゃいいと,彼は拾って食べた。

翌朝吝兵衛は,頭痛で目を醒ました。すると頭の上に,桜の木の芽が。ただで芽生えたんだからもったいないと,そのままにしておくと,みるみる育って,みごとな花を咲かせる。これが巷間知るところとあいなった。野次馬がどっと押し寄せ,宴会をおっぱじめる。しまいに花見客の喧嘩まで起こる始末。

これはたまらんと,植木屋に桜を引っこ抜かせた。跡にはぽっかり,大きな穴が。どしゃ降りの雨で,水が溜まってしまった。行水でもすれば湯銭が浮くと,そのままにしておくと,みるみる濁って,ボウフラがわく。ダボハゼ,鮒,鯰がわく。ドジョウ,鯉,エビ・カニ・・・。これまた巷間知るところとあいなった。太公望がどっと押し寄せ, 釣りをおっぱじめる。吝兵衛の鼻や耳の穴に引っかかる針。しまいに芸者連れの屋形舟まで出て,毎夜毎夜の大騒ぎ。眠ることもできない。

つくづく嫌気のさした吝兵衛。こんな苦労を抱えるならいっそ死んでしまえと,頭の池に身を投げてドボン。

  私たちは,頭に木の生えた人物,池のある人物を見たことはない。それどころか,自分の頭にできた池に飛び込む光景を,視覚的に思い浮かべることができない。ここでは,私たちが日々かりそめの言い訳に用いるたぐいの論理が,ほぼ崩壊している。日常生活でぼんやりと私たちが抱く現実感覚も,吹き飛んでいる。非論理・非現実を突き詰めたところに,この世界はある。

にもかかわらず,私たちは語りに魅入られ,そのなかを生きる。顔をしかめ,そして笑い,こころを痛め,ため息をつく。それは,私たちが非論理的だからか?

実は,そうではない。情緒的な経験の性質は,これほどの非現実にあっても保たれる,ということである。すなわち,噺のうねりがもたらすいきいきとした感覚は,論理ではなく,情緒に拠っているのである。セラピーも,同じである。それが,生きることに伴う経験にリアリティをもたらす。

  私たちは,自分はおおむね理にかなった生き方をしている・・・という空想を,生きている。実態として私たちは,おおむね情に沿った生き方をしている。私たちがときにリアリティを覚えるのは,筋ではなく,情が通ったからである。

(文:増尾徳行)