臨床コラム 風と生の繋がり

 堀辰雄の『風立ちぬ』の巻頭では、ポール・ヴァレリーの詩の一節の原文と、堀による翻訳が書かれている。

「風立ちぬ、いざ生きめやも」

 その意味は、「風が吹いた、いまこそ生きねばならない」である。もっとシンプルにすると、「風が吹いた、生きねば」でもいいだろう。(ちなみに、文法上の説明(風が吹いているのか吹いていないのか、読み取れない人もいる)とか、堀辰雄の翻訳が誤訳であるという指摘とか、スタジオジブリによる『風立ちぬ』のキャッチコピーが「生きねば。」であったこととか、そういうことには触れないでおく。そこに風は吹いていない)。

 この詩について、少し考えてみる。

 ここで考えることは、「なぜ風が吹いたら、生きねばならないのだろう?」ではない。それは詩の内容に踏み込むものであるけれど、そういうことをしたいのではない。それは詩学者の仕事だと思う。詩の作り方に決まりがないように、読み方にも決まりはない。口語詩、自由詩、定型詩、叙情詩など、形式や内容による類型はあるにしても、その詩をどのように味わうのかについて類型は無関係である。ここで取り上げたいのは、「風が吹くことと、生きねばならないことは、何によって繋がっているのだろう?」ということについてである。

 そして結論から言えば、それは人の心であると思う。

 風が吹くことと生きねばならないことの間には、直接的な因果関係も、明確な論理的な理由もない。風が吹けば桶屋が儲かるほどの、現実的かどうかはさておき、具体的な過程もない。それはヴァレリーの詩(『海の基地』)までたどっても、そうである。そこに関係があるように感じるのは、私たちの心である。詩に心奪われることがあるように、詩を読むのは目であっても、詩を感じ、詩を受け取るのは心である。そんな心を描くために表現される言葉の連なりを、私たちは詩と呼んでいる。詩の構成要素は、当然ながら、言葉である。もしそんな心を、他者との関係の中で描こうとするなら、その作業のことを、心理療法と呼ぶことができるかもしれない。

 心理療法は、二人の人間による共同詩作である。

 ほとんどの心理療法は、言葉を媒介にして行われる。

 言葉が何を媒介するかというと、それは二つの水準がある。ひとつは、いまだ言葉にならない心の感覚や体験を、言葉によって加工して、心に置いておけるようにする、という媒介である。これは思考だとか、内省だとか呼ばれる活動のことである(専門的には、二次加工とか、象徴化とか、α機能とか呼ばれる)。もうひとつは、心のことを話す者の心と、それを聞く他者の心とを媒介する。これは、心という何かが関係の中で定位されるという考えである(専門的には、あいだとか、移行空間とか呼ばれる)。

 言葉は、発言した途端に消える。そして心も、目には見えない。

 それでも心は、確かにあるように感じられる。消えたはずの言葉も、心に残り続けることがある。

 そんな心という見えないものは、言葉を通してでしか、理解することができない。行為によって心を表現することはできる。例えば子どもの遊びは、まだ言葉によってまとまっていない心の体験を、行為によって表現する方法であるし、それ自体が治療的な機能を持っている。また例えば犯罪であったら、犯罪の背景にある無意識的な動機であるとか、心的な空想が現実の中で犯罪行為の形で表現される過程であるとか、そんなものを通して、犯罪者の心を理解することが試みられる。しかし、行為から心を理解するためには、言葉がなければならない。言葉にならないために行われた犯罪という現象を理解するには、言葉が必要である。

 このように言葉は、心と行為を繋いでいる。これは個人的な意味である。

 そして言葉は、心と他者をも繋いでいる。これは関係的な意味である。

 心理療法では、心を理解するための媒介として言葉が用いられる(言葉を使わなければ心理療法ではない、ということではない)。それは言葉が必ずしも心そのものでもない、ということでもある。言葉は媒介でありながら、心の象徴でもある。つまり、心は言葉ではないが、言葉は心を置き換えたものである。

「風立ちぬ」

 この風という言葉は、気圧の差によって生じる、大気の自然現象のことを示している。一方で、風は心の経験ともよく馴染む言葉である。心も、風通しが良いように感じられたり、勢いづくように感じられたり、凪いでいるように感じられたりする。心の中をめぐるその風は、そよ風なのか、強風なのか、上昇・下降気流なのか、乱気流なのか、つむじ風なのか。それは吹いてみなければわからないし、どう感じるのかにもよっても違うだろう。大したことない風かもしれないし、とてもじゃないけど立っていられない嵐かもしれない。

 地球が運動するかぎり風が生じるように、心があるかぎり風は生じる。

「風立ちぬ、いずこにか?」

 それは、心なのである。

 翻って、風が吹かなければどうなるのだろう。単純に反語にすると、「風立たず、もう生きられぬ」と言い表せられるかもしれない。とたんににっちもさっちもいかなそうな感じがする。風が吹くのを待つことすら、耐え難いようでもある。「もうどうしようもない」と思ったとき、心に風が吹いていないのかもしれない。そしてその携えている苦しみを、どう言葉にして(つまりは風に乗せて)、繋いでいけばいいのか、個人的な意味でも関係的な意味でも、わからなくなっているのかもしれない。

 風が吹くことと生きること。その間を繋ぐ何かが、心の中にある。

 もし見つからなければ、これからそれを創りだすこともできるかもしれない。

 それはちょうど、詩を作るのと同じである。

 それはまさしく、心理療法そのものである。

 私たちは、それがなくなってしまったら生きられなくなってしまいそうな何かを、心の中にある風の借宿に抱えているのかもしれない。

 そしてそれは、風に乗るときが来るのを、ひそかに待っているのかもしれない。

「風立ちぬ、いざ生きめやも」

 風が吹くことと生きることの間には、繋がりを探し続ける心が息づいている。

 息もまた、吹くものである。

 息を吹いているなら、それは生きている。

 その息に言葉を乗せて、別の心に放たれる。

 そうして風は、あちらからこちら、そしてまたあちらへ、いったりきたりと、めぐっていく。

(文:平野慎太郎)