臨床コラム 鬼滅の刃と半沢直樹と心理学‐ただただ、流行にのってみる‐

私くらいの年代の人は、アバンストラッシュで傘を折るか、牙突で傘を折るか(どちらにせよ、怒られる)した人もそれなりに多いのではないかと思います。最近の子どもは、「雷の呼吸 壱ノ型 霹靂一閃 六連!!」とかやって、折るんでしょうね。ちょうど学校の置き傘って橙色(が多いように思うのですが、地域によって違う?)なので、それっぽい日輪刀になりますし、ばっちりですね。(何がだ)

今回は原作小説もコミックも読んだことのないニワカがアニメ・映画とドラマだけを頼りに、だらだらと書いてみる。そんなコラムです。

半沢直樹、流行りましたね。以前、どこかのコラムで書いたように思いますが、半沢直樹は現代版・遠山の金さんだなと思います。あるいは、ハリウッド的日本ドラマ。分かりやすく半沢直樹は正義、それ以外は悪です。広重や乃原、その他いろいろ悪い人にも、彼らなりの事情や経緯はあるわけですが、そこは問答無用。そのおかけでドラマのテンポは良いし、単純に感情移入しやすくて見やすい。コロナのせいで撮影スケジュールや放送回数にはかなりの制約があったそうですが、そうしたこともあのクリアカットな作品に繋がったのかもしれないですね。

コロナ繋がりで言えば、社会の不安も、あの流行には一役買っていたのだろうと思います。私たちはウイルスのような目に見えないものには不安を覚えます。そうすると、まやかしの安心を得るためにどこかに原因や悪者を作り出して、それを遠ざけることで安心しようとする。差別とか誹謗中傷の類ですね。ウイルスに対しては、正しい知識とコミュニケーションでもって、不安を抱えることが必要になるわけです。けれど、たまには誰かを悪者にしたいときもある。そんな折に、半沢直樹はちょうど良かったのかなと思います。ドラマの間だけは、安心して自分が正しいので。ありがとう、大和田常務。

煉獄さん、あなたの勝ちです。映画館で大人たちが鼻をすすっていたのは、花粉症だけが原因ではないはずです。

鬼滅の刃は、わりかし鬼の回想シーンが多いですね。「鬼も鬼なりに、いろいろあったんだよなぁ」と思わせる。(無惨にも、何かしら事情はあるんでしょうか?私はそこまで知らないので、今のところは究極のパワハラ上司にしか見えていないのですが。)そこで炭治郎が「そんなこと知ったことじゃないッ!」とか言ってバッサバッサと鬼を切ってしまうと身も蓋もないのですが、彼はそうではない。たしかに鬼を切りはするのだけれど。そのために間延びしたりワンパターンな展開になったりする印象を受ける部分もありますが、でも世の中ってだいたいこういうもんだよなとも思わせられます。そんな簡単に割り切れない。好きで鬼をしてる訳でもなかったのに、気が付くと止められない。そこに他の人の事情が絡みついて来て、お互いどうしようもない。結果的に、目の前の人には直接の恨みはないのに、何故か切りかかっている。

 けれど、きっと子どもたちはそんなことは見ていないですね。刀で、チャンバラで、鬼が出て、大正浪漫風、ゴレンジャー風のキャラ設定、なんか難しい漢字の技名、炎・水・風・雷・岩。もう、これだけでカッコいい!!映画が終わった後には、すっかり鬼殺隊になって劇場を走っている子もいましたが、そういった姿を見ると、内容よりも作品から受けるインパクトだよなと思います。作品の考察とか内容が~、伏線が~とか言ってしまう大人より、子どもの方がよほどリアルな経験をしている。その点では、鬼滅の刃の流行は(原作を貶めるつもりはないけれど)アニメの作画と音楽がとても重要な仕事をしているのだなと思います。アニメに限らず、絵画でも写真でもコンサートでも、その前に立った時に私たちに訴えかけてくる迫力、私たちの中に掻き立てられるもの、そういった体験を喚起させてくれる作画と音楽。映画で、煉獄さんが最初に抜刀するシーンはなかなか鳥肌ものでしたよ。

もう一回、見に行こうと思います。

(文:石田拓也)