臨床コラム  カウンセリングは不気味なもの?

 クリニックの待合の壁に,大きな絵(赤や緑,黄色などの絵の具が飛び散っているようなもの)がかかっているかと思います。
 その絵はゲルハルト・リヒターというドイツ人画家の作品(のポスター)です。
 さて,そのリヒターの展覧会が少し前にあって,私にしては珍しく,特集雑誌で予習をしてから行きました。

 展覧会の目玉は,ビルケナウという作品でした。
 絵を説明するのは野暮かもしれませんが,ナチスの強制収容所の一つ・ビルケナウで隠し撮りされた写真をもとに,その風景を描き,その上から絵の具を重ねたというものです。
 何も知らずにあの絵を見たら,その画面の大きさや筆致にただ驚き,「すごい絵だな」とのんきに見るだけだったでしょう。
 私は3つの絵の前に立ち,近くで見たり,遠くから見たり,正面や横から見たり,往復してみたり,座ってぼーっと見たりして,小一時間はそこにいたと思います。
 不気味なのに(不気味だから?)惹かれてしまう,そんな体験でした。
 あの絵の下層には恐ろしい光景が描かれていて,描かれていることを知らなければその狂気に触れることはありませんでした。

 フロイトは,『不気味なもの』という論文の中で,私たちが不気味さを覚えるものは,私たちがこころの奥底に沈め,見えないようにしている恐ろしいものが顔をのぞかせたときだと書いています。
 そして,その恐ろしいものは,実は私たちにとって身近なもの,例えば,死と関連したものだそうです。

 そう考えると,カウンセリングは不気味なものかもしれません。
 確かに,自分自身や自分に起こっていることについて話す中で,よくわからないものに名前がついたり,言葉になることで安心できる側面はあります。
 一方で,見えないようにしていたものを見てしまう瞬間があって,それは自分の中にある恐ろしいものに触れる体験にもなりえるでしょう。
 私たちにとって不気味なものは,一番身近な自分自身かもしれませんね。

(文責:奧田 久紗子)