心理療法という営み:コラム再始動

みなさん,こんにちは。スタッフの筒井です。しばらく更新が途切れ途切れだったコラムですが,今回より再始動となりました。やや専門的な内容を記していく「特集」と,臨床実践と関連のある事柄をつれづれなるままに書いていく「コラム」の二種類が今後掲載されていくと思いますので,どうか温かい眼差しで見守っていただければと思います。よろしくお願い致します。
さて,再スタートの第一稿は,私,筒井が担当いたします。今回の内容は,私たちが提供している心理療法・精神療法・カウンセリングというものが,どういったものなのかについて,何かしらをお伝えできればと思っております。

こうしたコラムで何かを発信していくということに,私は少し戸惑いを覚えている次第です。というのも,私が書く内容は,私自身の人となりをどうしても表現してしまうからです。自分が語ったり書いたりするものは,常に何者かに対して発表することであるので,当然,知られるとは思っていないことが知られる可能性がそこにあるからです。これを,ロナルド・ブリトンという人は「公表の不安」と表現しました。そうした意味で,心理療法などを受ける方(クライエントとよく呼称されます)は,大変なプレッシャーや不安のなか,治療に臨むということでもあり,実は相当に過酷な作業に従事されているということなのです。

閑話休題,話の筋をもとに戻しましょう。心理療法,とくにここで提供されているようなものは,クライエントさんに自由に思いついたことを話すことを推奨しています。この方法は「自由連想」と呼ばれています。自由に語る中で自身が何かを気づいていったり,カウンセラーは耳を傾ける中で何かを発見したりする。そういうことが起きてくると言われています。

「自由に話すのなら,一人でもできる。わざわざ誰かに聴いてもらう必要があるのか。」このように思われる方もおられるかもしれませんし,それも一理あります。人に語ることではなく,自分で自分に語りかけ,独り言のように内省していけばいいのではないか。自己内省自体,有益ですし,心理療法を受けるうえで必要になってくることもあると思います。でもそれだけでは十分とは言えない気がします。試しに,下の文字列を見てください。縦読みと横読みの両方をやってみてください。

どうでしょうか。不思議ですね。真ん中の文字が,「13」にも「B」にも読めますよね。一つのものでも見る人語る人によって違ってくることがあるのです。ウィルフレッド・ビオンという臨床家は,こうした事態を「反転可能な視点」と表現しています。クライエントさんが「13」だと思って話しても,カウンセラーには「B」と聞こえる。そしてそうした食い違いや矛盾が,クライエントさんのしんどさや悩みの要因の一つかもしれません。それは一人で語っているだけでは,おそらく辿り着くのが難しい視点なのではないでしょうか。

「自由に誰かに話すのなんて自分にはできない。じゃあカウンセリングを受けることはできないのか。」誰かに話すことを求めつつも,同時に不安を覚えられる方もいると思います。これも確かでして,一理あることと思います。「自由連想」をクライエントさんに求めていながらある意味矛盾しているようですが,「自由連想ができるようになること」が治療達成の証と考えている人もいるくらいです(ロイ・シェーファー)。なので,誰かに自由に思いや考え,気持ちについて話すということ自体,実はかなり難しい課題なのです。初めからできなくても当たり前とさえ言えるでしょうし,戸惑うのも当然でしょうね。

では,ここら辺で,今回のコラムは終えることにしましょう。伝えたかったことが伝わったか,正直疑問ですが…。中井久夫という著名な精神科医は,「伝える」と「伝わる」を区別し,大事なのは「伝わる」こととしました。なので,中井先生に倣って,何が伝わったのか何をキャッチされたのか,それは読み手の皆さんに委ねることとしましょう。

雑多で稚拙な文章で失礼いたしました。もっと上手く文章が書けるようになりたいですね。

(文:筒井亮太)