臨床コラム 「練習すること」

 こういう場で,何かを書くことはとても久しぶりで,すごく緊張する。何を書けばいいのかわからないし,どう書けばいいのかわからない。

 「書くことも練習だよ」と聞く。この仕事をしていると,何かを書く場面はとても多い。心理検査のレポート,面接の記録,職場によったら対応した記録などなど。それもあって,「普段から書く練習してるよ」と錯覚する。なら,どうして自分は今こんなに困惑しているのか?「あなたは普段どんなことを感じ,考えてこの世を過ごしていたすか?」と捉えているからかもしれない。「普段の生活の中で分析をどう活かしていますか?」「分析の視点でどんな風に普段の生活を理解していますか?」と聞かれているように感じているからかもしれない。こうやって書き出してみると,自分が如何に「書くこと」に対して固まった頭をしているのかを痛感する。

 心理検査のレポートや面接記録は普段から書いている,練習しているため,抵抗感はあまり感じない。しかし,自分の理解や考えをとにかく文字にしてみる練習は圧倒的に少ない。だからこそ,ここまでの困惑が起こっているのだと実感する。要は,練習不足なのだ。

 音楽でも同じである。特に楽器を演奏する方々は実感しやすいと思われる。クラシックを経験していた人が,数年ジャズの世界に馴染んでいて,ある日急に「クラシック演奏して」と言われても,直ぐに当時の技術並みの力量を披露することは難しいと思う(プロはそんなことないかも…)。ある時期まで楽器を演奏していて,数十年間ブランクが空き,「何か演奏してよ」と頼まれることは,もっとその難しさが上がるだろう。そして,その場では何となく,それっぽくできて周りの受けは良くても,個人内では「あそこがどうで」と色々反省会をするのだろう。もちろん,その時間は自分の恥ずかしさを痛感する時になるだろうし,苦しくもなる。しかし,前向きに,そういう苦い経験を経ないと進展しないものもある,と考えこともできる(何が進展しないのか,まだわからないが…)。そういう痛感する時間,苦しさは,誰かがいないとできないのだろうとも思う。1人で書く,練習している間は集中できるが,リアクションが無いとわからないことも多い。

 長々と書いてきたが,要は,練習をさぼっていたために,このような恥ずかしい文章を出すことになったことと,そのことへのお詫び,練習の大切さを痛感していること,を言いたかったのだと思う。そして,あらゆる場面で人は1人で生きることが出来ないのだと,書きながら改めて思った。

(文責:平井 三喜)