臨床エッセイ  映画「パーフェクトデイズ」を通して精神分析を理解する

 2023年の年末に公開されたヴィム・ヴェンダーズ監督の映画「パーフェクトデイズ」は映画賞を受賞したりして高い評価を受けているので,ご覧になった方もたくさんおられると思う。この映画は,主人公の数日間を切り取って描いたものなので,そもそも精神分析とは馴染みやすいとも言えるが,精神分析的経験を理解するうえで絶好の素材であるので,そのことを語りたいと思う。

 簡単にプロットを述べたい。役所広司が演じる平山は,渋谷区でトイレの清掃員の仕事をしている。この映画はその平山の数日のありふれた日々を描いたものである。平山は60歳前後の男性で,東京スカイツリー近くのアパートで独り暮らしをしているが,その部屋には必要最小限のものしかなく,テレビもない。彼は携帯電話も持っていない。その代わり,彼の部屋にはたくさんの文庫本が積まれており,カセットデッキとカセットテープがある。また,彼はたくさんの実生を育てている。彼は早朝に起きていつものルーティンで身支度をすると,高速に乗って,建築家たちが腕を振るった,斬新だが奇抜な渋谷区のトイレに向かい,そこで清掃の作業に従事する。平山は寡黙で,ほとんど何もしゃべらない。夕方,その日の仕事が終わると,彼は車でアパートに戻り,銭湯に寄ってから,地下街でビールを飲みながら簡単に食事を済ませ,早い目に帰宅して,しばらく文庫本を読んでから眠る。日によって,古本屋に立ち寄ったり,写真屋に寄ってフィルムを出したり(彼は毎日「木漏れ日」を撮影している),といった違いはあるが,ほとんど同じ日々を繰り返している。彼は,その生活に満足しているように見える。しかし,それでも毎日が同じわけにはいかない。同僚のタカシの恋愛に付き合わされたことは彼の心に少し波風を立てた。その後,長い間会っていなかった姪が家出をしてきたときには,彼がこれまで振り払ってきた過去の,父親との相克が眼前に引きずり出される。姪との一連のやり取りは彼の口を軽くする。さらに姪を迎えに来た妹とのやり取りを通して,現在の暮らしそのものが,彼が選び取ったものであり,それを維持するために多大な犠牲を払っていることを垣間見ることが出来る。彼が休日ごとに訪れる居酒屋での,女将や常連客との時間は,彼の癒しになっているようだが,そこで女将が男性と抱擁をしている場面に出くわしたことも,少なからぬ動揺を引き起こす。その後,平山が隅田川沿いの遊歩道で,独りで飲んでいるところにその男性(女将の元夫である)がやってきて,自分が末期がんであることを聴かされ,影は重なると一層暗くなるのだろうかと尋ねられる。平山は二人で試してみようと言って,ひと時影踏みに興じる。しかし,その日も過ぎて,翌日には平山は同じように仕事に出かけるのであるが,ハンドルを握る彼の顔は微笑みながらも涙がこぼれてくる。

 ここに描かれている数日間の平山の姿は,とても生き生きしている。制作者は観客に解釈を任すような作り方をしているが,彼らの意図はどうであれ,平山には監督のヴェンダーズが投影されていることは間違いないだろう。映画を見る経験は各人各様であり,それはそれで構わないのであるが,その見方が,社会的,文化的なコンテクストの影響を受けることも当然のことである。なので,トイレの清掃をしているのに,目を背けたくなるような汚物が登場しないのは非現実的であると考えることや,トイレの清掃員という下層の生活のリアリティが描かれていないことはおかしいという視点から,この映画を見ていくことも出来る。リアルでない場面は挙げれば切がない。ただ,映画は虚構である上に,大きな資本がなければ作りえないものであり,よほどの場合でない限り,制作にはたくさんの人が関わっている。

 この映画は,見る人の多くを,気持ちよくしてくれる映画であることは間違いない。それは,この映画作りにかかわっている人たち全員の意図が重なり合った映画だからであるということも要因の一つだろうし,役所広司が演じる平山に引き付ける力があって,その所作は見ている者を和ませるからでもあり,美しいものを求める姿から,明るい希望を予見させるということも関係しているだろう。ただ,私が論じたいのはそういう点ではない。私は,映画は複数で見る夢である,という視点から,この映画を観る経験と精神分析の経験の重なり合いを述べていきたい。ちなみに,精神分析は,分析者と被分析者の二人が作り上げた夢である,ということである。

1.平山の数日間をじっくりと描く

 一人の人間の生き方をじっくりと聞いていくことを通してその人を知ろうとすることは精神分析の基本であるが,この映画でも平山の数日間を切り取られており,映画を見ている私たちは,彼がどういう人間なのかを知る作業に取り掛かることになる。映画の中で,平山は,姪と「今度は今度,今は今」と歌っているので,描かれるのはあくまでも今の平山の姿である。しかし,今が描かれても,連想は未来にも過去にも広がっていく。これは精神分析の作業そのものと言うことが出来るだろう。しかし,精神分析との類似はそういう表面的なことに限らない。この映画では,監督のヴェンダーズは,役所広司の役作りのためにWho is Hirayama?という簡単なメモを渡したというが,そういう疑問を投げかける形で平山は作られていった。映画には勿論台本があったが,その場で起こることも大事にされた,とのことである。一方,精神分析も,「あなたは誰Who are you?」から始まり,その場での分析者と被分析者の二人のやり取りの中から,その人がどのような人なのかを少しずつ連想され,創り上げられていくことになる。

2.平山の日々の生活は繰り返しである

 私たちの毎日が基本的に繰り返しであるように,平山も毎日を同じパターンで繰り返していく。映画は,最初のうちはその描写を続ける。その所作はある種の儀式のようになっていて,無駄がないが,ここではストーリー性が排除されている。ただ,これは「足るを知る」といったことではない。彼はこの生活を選び取っているのである。彼はトイレ掃除の仕事をとても丁寧にやっていくが,そもそもこの仕事をやっているのは,かつて父親から,「お前は,便所掃除くらいしかできない奴だ」とでも言われたからであり,彼の気質による部分もあるかもしれないが,幾分かは意地でやっているのであり,本当は父親を愛しているからそうしていることがわかる。

 ただ,日々は繰り返しであるとしても,まったく同じではないのは映画の中でも,精神分析でも同じである。様々なことで波風が立って,それをもとに理解が進み変化していく,というあり方は,映画も精神分析のセッションも同じである。とは言っても,平山においては,毎日のルーティンの日課があることが構造をもたらすのに対して,セッションにおいては設定が構造となる。まず構造があることが前提である。そこに漣でもなく,かといって津波でもない波が押し寄せて変化が起こる。平山はルーティンを大きく崩すことはないが,それでも揺れは起こる。精神分析においても同じである。そして,何故揺らぎが起こるのか考えることを通して,つまり平山の心の動きを想像していくことによって,平山の人物像がよりはっきりと浮かび上がってくるが,これは精神分析で私たちが行っていることと共通している。この作業を通して,私たちは平山という人間をより深く知ることになるのと同様に,分析においては,私たちは自分自身のことをより深く知ることになる。私たちは,平山はこういう人なのだという理解を深めていくことになるが,実は,これは私たちが作った平山像であり,真実の平山なのではない。そんなものはどこにもない。例えば最後の場面で,車を運転している平山が見せる泣き笑いの表情は,多くの連想を呼ぶものであり,何を意味するかを確定することは出来ない。その意味を言葉で表そうとすることを,精神分析では「解釈」というが,「解釈」は要するに一つの見方に過ぎないのである。また,別の例として「パーフェクトデイズ」という題名は,制作者たちの解釈である。

3.平山は美しいものに手を伸ばす

 余計なものは何も持たない修行僧のように生きている平山の姿は,物があふれている現代にあっては清々しいと言えるかもしれない。また,トイレの清掃は,汚れをきれいにする作業であるが,彼はそういう作業を選び取って行っている。そういう平山の生活にひとつのディシプリンがあるとしたら,それは美を求めることと言い得るだろう。毎日を同じようにこなし,ミニマルな生活をすることは,ミニマル・ミュージックが醸し出すのと同じような美であろう。彼が実生を育てていることも,木漏れ日を写真に収めるのも,美に手を伸ばそうとする行為であろう。それらは作為を避けて,日常の中にある美を表現しようとすることであると言うことも出来るだろうが,これは監督の意図でもあるだろうし,それを汲んだ役所広司の演技でもあるし,自然の美,環境の美をあるがままに表現しようとしたものと言ってよいかもしれない。

 この点に関して,精神分析の美は見えにくい。精神分析は美を求めているのかと疑問に思う向きもあるかもしれない。しかし,サイコセラピーはそもそも何を目指しているのだろうか?その目的は,患者の苦痛や悩みを軽減したり,症状を取り除いたりすることであるが,多くの人が抱くイメージは,悩みなどを引き起こしている謎を解いて,心の葛藤を剔出することで,病を癒すというものだろう。しかし,外科手術と違って,心の葛藤を取り出すことなど簡単に出来る筈はなく,葛藤が何かが分かったところで,どうしようもないことが多いのが私たちの人生だろう。すなわち,現代のサイコセラピーは,以前のような謎解きではなくなっているのであるが,それでは何をしているのか。私たちがどのようにしたら,少しでも不幸でなく生きられるかを探求するのがサイコセラピーであることは揺らがないとしても,そのための指標となるのは美しく生きられるかどうかということになるだろう。であり,と言い得るだろう。このとき,その美はこれ見よがしの美ではなく,ミニマル・ミュージックのような美であろう。ただ,その美が一瞬の美であることは,美の本質上,当然のことだろう。また,その美は,生き生きとすること(アライヴネス)と近接していると分析家は考えている。

4.平山の見るもの

 平山には,他の人には見えない,様々なものが見えている。それらの多くは他人が気を留めないものであったり,見過ごしてしまいがちなものだったりするが,ときには他の人には見えないものも見えている。彼は,しばしば立ち止まってその場の光景を眺める。それは都市景観だったり,自然の姿だったりする。彼は言問橋から,悠然と流れる墨田川を眺める。一方で,東京スカイツリーの巨大な姿も彼の視界に入ってくる。彼には,何が見えているのだろうか。彼は,掃除の途中でふと目に留まった実生を家に持って帰って,大切に育てている。それは何鉢にもなっているが,彼はこれをどうするつもりなのだろう。ある瞬間に目に留まった木漏れ日を彼は写真に撮っている。そしてそれを現像してもらい,プリントされた写真を箱にしまっているが,それもかなりの量になっているようである。田中泯が演じる踊るホームレスは平山にしか見えない存在のようである。しかし,どうして踊っているのだろうか,そして何故平山にしか見えないのだろうか。私は,こうしたものが平山の生きる根拠となっていると思う。踊るホームレスは今の平山のネガ,ありえたかもしれない二重身(ドッペルゲンガー)として理解されるものだろうと思う。これは私の「解釈」である。

 いずれにせよ,ここから言えるのは,生と死が裏腹の関係をなしていることを,この映画は描こうとしているということである。ありきたりであるが,人生は川のように流れていくものであり,その流れには抗えないと言うことであり,背後には死がある,ということである。こうした考えは,精神分析と基本的に共通のものであるが,そこから木漏れ日について考えてみると,木漏れ日は光が木の葉にあたって,その間から漏れてきた光である。光がなければ木漏れ日は生まれないが,木の葉がなければ光に気づくことは出来ない。私たちは,影を見ているのか光を見ているのか,ということであるが,光も影も必要ということになるだろう。この映画でしばしば東京の夜が映されるのも,光と影の対比ということだろう。そして,影は死である,ということをより直接的に示唆しているのが,平山と友山の影踏みのエピソードである。影は光が遮られて生じるが,遮るものが多くなればなるほど,屈折する光も少なくなるので,二人が重なり合うと,は濃くなる。これを反転すると,分析者と被分析者が二人でいることで,私たちの生きていることにより一層光が当てられることになる。

 ところで,平山は毎晩夢を見ている。しかし,その夢は無機質なモノトーンのものであり,タイル張りの床のようなものが映っているだけで,毎日ほとんど変わることがない。これは物語性を拒否するものである。その意味は語られていないので私たちで解釈するしかないが,深読みすればこうやって作り上げられている物語も錯覚に過ぎない,という人間のリアリティを示そうとしているのではないだろうか。もっとも,そんなことは気に留めない人が大多数かもしれない。精神分析は,夢解釈から出発したので,精神分析家は夢を理解しようと試みるが,こんな夢を語られたら,私は,あなたはどう思うの,と尋ねて,そのあとは連想に任せるだろう。私たちにはどうすることも出来ない部分があることを噛み締めるしかないだろう。平山とともに私たちは考えていくことしか出来ない。

5.映画は暗闇の中で明滅する光である

 ところで,フロイトは経歴の後半に至って,人には死の欲動があり,いずれ滅びていくという自然の流れに抗うことは出来ない,という理論(涅槃原則)を唱えるようになった。しかし,この考えは当時の他の精神分析家たちには不評であった。しかし,そうした精神分析のトレンドは少しずつ変化してきており,現在の精神分析では,人間の本性のそういうネガティヴな側面を無視することは出来ない,という方向に理論は転換しつつある。このことを映画とのアナロジーで考えるならば,映画は本当は暗闇の中の光の明滅であり,映画全体のフレームを作るのは暗闇である,という認識は,しばしば言及されるとしても,通常,私たちは映画の中身の物語に引っ張られがちである。しかし,この映画では,光と影を中核的テーマとして扱っているので,私たちの思考をそちらに引き戻してくれる。そこから,改めて私たちは人間の心のネガティヴな側面に思いを馳せることになる。そういう意味でもこの映画は精神分析と重なりあう。もっとも,私たちは,ここで展開している物語を錯覚だとして直面化するのではなく,そういうものとして受け入れて,ささやかな美を求めて生きていくしかないだろう。これはイギリスの精神分析家ウィニコットの中核にある理論である。私たちは錯覚を,錯覚と知りつつ生きていくのである。

 最後に,このように様々な理解が可能であり,様々に読み取ることが出来ること,これはこの映画がとても創造的だということである。私はこの映画について,いろんな人がレヴューしているのを読んだが,この映画は語ることを誘う映画であると言えるだろう。そして書かれていることは十人十色であったが,どれも楽しむことが出来た。私は,精神分析もそういうものでありたいと願っている。そして,最後は「じゃあ,またね」と終わるのが精神分析的である。もっとも,いったん巻き込まれたら,取り返しはつかないのであるが。私たちは精神分析に変形されてしまったのである。

(文責:館 直彦)