臨床コラム  ヴァーチャリティーの二方向

 形あるものを対象とした機械技術が,現にあるものに限りなく似せるというヴァーチャリティーの生産を進めていますが,私は逆方向のこと,あまり現実のみかけに拘束されないこころの世界のヴァーチャリティーについて書いてきました。視覚的にはあまりに未完成の「たまっごっち」がどうして受けたのか,バナナを電話にみたててふたりの遊びが成り立つそのキーとなるメタメッセージの重要性,空間を仕切ることにはじまる「聖なる」感覚の出現(いわゆる結界),これらは人の想像・創造力があるからこそ共有される文化の一部であって,「本物ではない」かもしれないものとの間で「本当に経験」を積み重ねるということなどです。私たち人間はそもそものはじめからヴァーチャリティーに開かれていて,現実のものに拘束されないという自由をもっています。自由さを背負っていると言ったほうがいい時もあるでしょう。ここでは結界に類似する,心理療法の設定の意義について語っています。

 子どものこころの反応はナイーブなので見えやすいことがあります。場面緘黙のひとりの女の子は母親と同席の初回面接のときに,太陽を描いてそのなかに人の笑顔を描きたして「おかあさん」と書いて,その背後に発光する星を描いて「まぼろしの光」と書いて私に見せてくれました。集団行動がむつかしかったある男の子は,「宝探しを手伝ってくれるおじいさん」と宝をみつけてベンチでくつろぐ場面を3回目の面接で表現しました。本物の私を知るわけでもない子どもたちは,母親に連れられて学校や幼稚園のようにみんなの先生ではない,自分だけに出会うセンセイ,心理療法という設定にこのように反応するのです。そうした初めのイメージは経過のなかで変容し,逆に妖怪や幽霊にされたりします。遊戯療法という関係の中で表現されるイメージは,通常の遊びの中にあるからかいやジョークとは異なった切迫したニードが関わっていて大変真剣なものです。対象は本物ではなくても,それに向けた活動は本当の衝動,感情を伴った本当の経験だからです。心理療法における出会いは,子どものこころのなかの象徴性を活性化することをあからさまにしてくれますが,同じようなことが大人でも起こっているはずです。

 こうした設定(しつらえ)が生み出すヴァーチャリティーは科学技術の進歩に伴って作りだされているそれとは似ても似つかぬものです。テクノロジーが感覚,知覚的に同じ経験を提供するという意味で幻覚と同じ作用による衝動満足を追及しています。他方,心理療法の設定は現実そのものではないゆえに,象徴的な機能,つまり想念を構成する思考と感情を活性化するのです。

(文責:弘田 洋二)