臨床コラム すみっこ暮らし

コラムを、コラムを書かねば・・

この、息も絶え絶えな感じ、伝わるだろうか。

コラムを書くというちょっとした産みの苦しみを味わって、“きっと世の作家さんたちも大変な思いをされているのだろうなぁ”と同じ土俵に乗ってみたりする。なんと厚かましい。

さて、コラムを書かねばと思い、実は6月頃から考えていた。不安過ぎるとかなり前もって用意をする性質から、人からはまじめだと評されることが多いように思う。ただただビビってるんだけなんだけど、と思いつつ。

そんな小心者の私が、最近年を取ってきたからか、ずいぶん図太くなった。心の中で自分に言い訳するのが上手になったのか?色々なことをあきらめられるようになってきたからなのか?『年を取って図太くなりました』というコラムを書こうかと思ったけれど、あまりに品がないような気がするのでやめておく。

と言いつつ、もしかしたら関連するのかもしれないけれど、6月に用意を始めた私に敬意を表して『私のすみっこ暮らし』について書こうと思う。

カウンセリングで私は多くて週に1度患者さんに会う。1週間10080分あるうちの45分。

時代的にエビデンスが大切だと言われる。証拠や根拠だ。カウンセリングの効果に証拠や根拠はあるのか?私はカウンセリングの再現性などないと思うし普遍性もないだろうと思う。今日その時の私と今日その時の患者さんが出会う場で何が起こるかということだから、その場限りで起きる関係性なのだから。どこかの本か雑誌に、カウンセリングの効果は6割程度だと書かれていたような気がする。本当だろうか?そもそも誰がどうやってはかったんだ??

私の一言で患者さんが劇的に変わったということを未だかつて経験したことはない。ただ、何度も何度も出会っていくうちにお互いに何かが浸透していっているような感覚はある。この浸透性がないとカウンセリングはなかなか難しいだろう。ごくたまに患者さんから“古びた私の言葉”を聞く。以前に自分が言ったことがあるように記憶している言葉だ。それが見事に患者さん自身の言葉となって語られた時に、あぁ、私の一部である“言葉”が私を離れ、その人の中にいてその人仕様の私になったのだなと思って感激する。浸透性のわかりやすい一例だろう。私ではないわたしらしきワタシ、どうか、その人の中で良い仕事をしてくださいと祈るような気持ちになる。

1週間に1回45分。そこでお互いに言葉や言葉以外の“何か”を取り入れ、影響しあい、持ち帰ってから無意識の中で培養する。そうか。

どうもカウンセリング作業の大半が会わない間のそうした無意識のなせる業のように思えてきた。

このような感覚でいる私。

ん?・・どこか開き直っているような・・無意識頼みか??

やはり表題は『年を取って図太くなりました』でよかったのかもしれない。

(文:高橋久美子)