臨床コラム コラムのコラム

 今回久しぶりに臨床コラムの担当が回ってきましたので、どんな内容で書こうか、ひと月程前から色々と考えていました。普段カウンセリングについて考えていることについて書こうか、子育てに関することをつれづれ書いたりしようか、など色々とアイデアが浮かんでは消え・・・。コラムで自由に文章を書くというのはなかなか難しいですね。

 そこで、過去のコラムを読み返してみることにしました。しばらく他のスタッフのコラムをチェックしていなかったので、みんなどんなことを書いているんだろうと気になったのです。私の勝手な憶測では、おそらく他のスタッフも、コラムを書く時には過去のコラムを読み返したりしているに違いないと思っています(笑)ほんとに勝手な憶測ですけども。

 さて、読んでみると、それぞれ毛色の違ったコラムになっていておもしろいなぁと思いました。それぞれのスタッフの普段を知っているのでなおさらそう感じるのかもしれません。文章に普段の人柄がそのまま表れている人もいれば、普段の印象と少し違う印象の人もいたりして。文章表現の仕方にも個性が出るものですね。1年間分くらいをざっと読み返してみて、ちょっと面白いなと思うことがありました。同じ執筆者でも、一回目と二回目で少し毛色が違っている人もいたりするのです。そして、私自身も他の人のコラムを読んでいるうちに、初回に担当した時とは違う感覚が湧いてくることに気付きました。

 そう、初めてコラムを任された時の私は、正直書くのがとても嫌で(笑)だけど順番だし、何かしらを書かなければいけないというプレッシャーを感じていました。しかも私の前に書いていた人たちはきっと私よりも沢山本も読んでいるのだろうし、それよりも知識の少ない私はどうしよう・・・といった気持ちだったのです。気持ちとしては、とても力んでおりました。それでも何とか自分なりに考えて、患者さんの自己理解に少しでも役立つ記事にしようと前回のコラムを書きました。ただ、書いてからしばらくして読み返してみると、やはり力みが文章に出ているなぁと(笑)我ながら、内容を詰め込み過ぎていてとても読みづらい・・・。程よい余白というのが、読みやすい文章にとっては大切なのだろうなーと思いました。おそらく、頑張ろうとするほどにまとまらなくなってしまうのが、ある意味私の文章の個性なのでしょう。

 さて、先ほど、今回は違う感覚が湧いてきたと書きましたが、それはシンプルに「あ、自由でいいんだ」という感覚です。いや、元々自由なんですけれどもね。このコラムというのは、与えられた紙面の中で、臨床に関することであれば自由に書いていいわけなんですけど。ただ、最初の時の私は、その自由が苦しかったのだと思います。

 人は「自由」を与えられた時に、なかなかすぐには本当の自由にはなれないのかもしれないなと思いました。自分にとっての、「こうでなければいけないんじゃないか」といった固定観念であるとか、「変に思われるんじゃないか」といった不安であったりとか、そういったものにからめとられて、全然自由になれない・・・。

 ところが、そんな私が今回は「自由でいいんだ」と思った。これは私の場合、明らかに他のスタッフのコラムを読んだからなんですよね。そこまで思い至って、コラムの場がまるで集団精神療法のようだなと、ふと思いました。集団精神療法というのは、複数の人が集まって行う精神療法のことです。集団精神療法にも様々なやり方がありますが、ここでは精神分析的な、自由に話す形式の集団精神療法のイメージです。複数人が集まって、その中での対話により、参加者相互に変化が起こっていくというものです。

私は、臨床コラムという場でもそれに似たようなことが起こっているのかもしれないと思いました。というか、少なくとも私には多少の気持ちの変化が起こったかなと。何か自由に話す場所が与えられて、そこに二人以上の人間が参加すると、何も意図しなくとも何か心の動きが生まれてくる。それは当たり前といえば当たり前ですが、人の心というのは面白いなと思います。ただそこに人が複数人集まるだけで、生まれてくるものがある。これはカウンセリングの場でも同じことが言えますね。

 もしかすると、次にコラムが回ってきた時には、私はまた何か違う気持ちになっているかもしれませんし、同じような気持ちかもしれませんし、先の自分の気持ちはまだ分かりません。またコラムを書くのは嫌だと苦悶しているかもしれませんし(笑)とりあえずただ、自分の中で何が起こるのか、その時々で感じていけたらいいのかな、と思ったりしています。まぁ、余裕がない時はそれ自体が結構難しいんですけどね。

(文:由良 笑)