臨床コラム コラムは嫌い

クリニックに勤務しだしてしばらく経つが、初めてコラムを書くのが当番制になったと聞かされた。寝耳に水である。いや、コラムを書くことはそれほど難しい事だと思わないかもしれない。ところが、実際に書きはじめると、それはそれはとても恥ずかしい自己開示(※自分自身を語ること)になってしまったのだ。

コラムというのは、そもそも誰に向けられたものかもわからない。誰の目に晒されることになるかわからない。ここには少々私の万能感も入っているのかもしれないが、私のことを知って欲しい人にだけ開かれるという事ではない。知られたくない人にも知られる可能性があるという点で非常に暴力的である。
これを暴力だと私が非難するのは、私の劣等感が関係する。
私の感覚では、私の知っている事、私の言うことなど、誰もが知っていることなのだという思いが強い。

ほら、こんなことまで書かないとコラム一つ書けないのだ。
誰が私の劣等感の話など聞きたいのだろうか?
不特定多数の人に対して、べらべらと自分を語って何が楽しいと言うのか?
だんだんと腹が立ってきた。
私はここで誰も聞きたくない私の心情を述べているだけである。
なんて滑稽なのか。

これがコラムと言えるのか知らないが、コラムを書いていると、これは自由連想の過程と似ているのではないかと思った。自由連想というのは、思い浮かんだことを言葉にして自由に思いつくまま話してみるというひとつの治療方法である。ただ、治療の中で自由連想を促すのは、それに関心を持って耳を傾けているだろう治療者がいるからだ。しかし、この紙面上で自分の連想を繰り広げるのは、独り言に過ぎない。普通に考えてみて(普通って何だろう?)、私が私を語ることに誰のニーズがあると言うのか、100歩譲って私が私を語らずにとある事象について語ることに誰のニーズがあると言うのか。その辺に売っている一般書の方がはるかに役に立つではないか。

ほら、出て来た私の劣等感。
晒されている気分しかない。誰のためでもなく、自分のためでもなく、何のために私はコラムを書かされているのかわからない。

ここまで書いて気づいた。
自分を語るのは、とても勇気がいることだ。
その場で、少なくとも受容されているという感覚が無いと続かない。
カウンセリングを受けるという事も同じだろう。
私は普段、患者さんの語りを聞かせてもらっている。
その過程を当たり前に思っていたが、毎回毎回患者さんがどのような気持ちで自由連想に取り組んでいるのか、改めて立ち止まって考えてみる必要がある。
晒されるという事への怖さだ。
誰が好んで見ず知らずの人に、今まで自分にさえ気づかれたくなかった痛みや恥じらいや憐憫の気持ちを明かそうとするだろうか。それは、しっかりと自分を受け止めてくれる治療者がいるんだという期待や希望があるからではないか。

私の向こう側に今誰がいるのかわからない。もしかしたら誰もいない中でこの言葉を紡いでいるのかもしれない。誰もいないかもしれない中でただ垂れ流す自由連想ほど惨めなものは無い。
やはり、私はコラムを書くのは嫌いだ。

(文:高橋久美子)