臨床コラム トリスタンとイゾルデ

 ワーグナーは,卓越した心理学者である。人のこころがそのままでは現世(うつしよ)に現れえないことを,彼は知っていた。そのうえで,楽劇という手法を用いて描き出した。

 トリスタンとイゾルデは愛し合っている。それは現世に現れてはならない。今やイゾルデはマルケ王の妃であり,トリスタンはその王に仕える騎士である。そして,かつて決闘において彼女の許嫁を殺めたのがトリスタンであり,知らずとも気づきつつ,その際に彼が負った深手を癒したのが,イゾルデだった。

 今にして彼らは,王の妃とその王に仕える身の関係である。過去にあって彼らは,婚約者を殺された身とその仇である。にもかかわらず,彼らは愛し合っている。それは現世に現れてはならない。

 現世が,こころをゆがめゆく。こころも,現世をゆがめゆく。トリスタンは王への忠誠のため,家臣に斬られることを選んだ。王は2人を許すのだが,ときはすでに遅かった。

 彼らは,出会ってはならなかったのか。

 出会った今,互いのこころを現さないことが善なのか。

 楽劇は,トリスタンの死とイゾルデの謳う「愛の死」とともに幕を閉じる。終末の惨劇が繰り広げられた舞台に,歌とともに充足が沁みわたる。

 躊躇,憤怒,憐憫,狼狽,情愛,焦燥,歓喜,憧憬,孤独,嘆息,恍惚,慈悲。楽劇が進むごとにそれらは現れ,一色に染まり,混じり合い,新たに現れては消え,収束する。

 楽劇に現れたこころが,閉幕とともに消えることはない。観た私たちのこころは,観る前のかたちには戻らない。変形を被るのである。

(文責:増尾徳行)